山手殿とは【真田丸では薫】~真田家を支えたなぞの女性の出自

山手殿宇多頼忠の娘という説が有力だが、武田信玄の家臣・遠山右馬助の娘とする説もあり、良くわかっていない。生年は不詳。
いずれにせよ、1564年頃?に、武田信玄の足軽大将・武藤喜兵衛(後の真田昌幸、20歳)の正室となった。
別名は山之手殿、山手、山手殿、山手の方、山の手殿、京の御前。
2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」では「薫」として高畑淳子さんが演じる。

なぞの出自に迫る

真田家の史料では「京の御前さま」とあり、出自としては、公家である正親町実彦の娘や、清華家・菊亭晴季の養女とする記述もあるが、当時、武田信玄の家臣であった真田家とはつり合いがとれず信憑性には疑問点が残る。
なお、高野山蓮華定院に残されている記録では「武田信玄公養女」と記されている。

出自の説をまとめると下記の通りだ。

正親町実彦の娘で、武田信玄の養女(綱徳家記)
正親町実彦の姪で、右大臣・菊亭晴季の養女(滋野世記、取捨録、樋口系図)
今出川(菊亭)晴季の娘(滋野世記、真武内伝)
宇多頼忠(宇田下野守頼忠)の娘(真武内伝、諸家高名記)
宇多頼次(宇田河内守頼次)の娘(真田秘伝記)
遠山右馬亮の娘(沼田記、続武家閑談)


スポンサーリンク


なお、宇多頼忠の別の娘は、石田三成の正室にもなっており、更に、真田昌幸の娘・於菊が、石田三成の妻の従兄弟(宇多頼忠の兄・尾藤知宣の子)・宇多頼次に嫁いでいる。
この事から、真田家と石田家の関係は深かったようで、真田昌幸が関ヶ原の戦いで石田三成に協力したのもうなづけるが、その関係が深かった事からの誤伝とも考えられる。
遠山氏の娘と言う説は、真田幸隆の娘(真田昌幸の妹)が遠山氏に嫁いでいる事実がある為、その逆だと勘違いした誤記と考えられる。

以上の事から推測すると、私見的には武田信玄の正室・三条夫人が輿入れする際の世話係として躑躅が崎館にやって来た若い女性がいたのだと推測する。
そして、将来有望な真田昌幸の正室へと武田信玄が世話し、妹の婿である公家・正親町実彦の養女と言う事で輿入れしたとも考えられ、正親町家や菊亭晴季にゆかりある子女(親戚の娘など)が山手殿で、武田信玄の養女としても嫁いだと考えている。
※大河ドラマ「真田丸」における三谷幸喜さんの解釈としては、薫は貧乏公家の娘で、侍女として今出川(菊亭)晴季に仕えていた女性であったとしている。

新府城から岩櫃城へ決死の落ち延び

さて、山手殿は1560年頃に真田昌幸と結婚したようで、1565年に長女・村松殿、1566年には嫡子・真田信之、1567年には真田幸村を産んでいるが、その後、実質的な人質として山手殿も甲府にて生活していた。
なお、他の子女に関しては不明。
1582年3月に織田信長織田信忠の軍勢により、武田勝頼が新府城から落ち延びた際に、山手殿や真田信幸(真田信之)らは、新府城からなんとか脱出し、河原綱家らに守られて岩櫃城を目指した。

この時、山手殿の一行は約300人だったようだが、敗戦で逃亡する者も多数出て、100人程度まで減ったと言う。
食料も乏しく、皆が空腹で立てなくなると、山手殿は女中に指示して鏡笥から弁当を取り出して与えたと言う逸話もある。

旧領・真田の地を抜けて、鳥居峠を越えようすると、前方から軍勢が迫って来たのを見て、家老・矢沢頼綱や真田信之や、山手殿、矢沢薩摩守の母らは討死や自害を覚悟したと言う。
しかし、その軍勢は鎌原幸重や恩田庄兵衛が率いた真田勢の迎えであり、一行は大笹村に宿泊した翌日、無事に岩櫃城へ辿りついた。

その後、真田家は一旦、滝川一益の配下に入り、北条氏政北条氏直徳川家康との対立のあと、豊臣秀吉に臣従した。
そのため、山手殿は人質として大阪城下の屋敷にて暮らしたようだが、1600年8月、関ヶ原の戦いの直前には、石田三成の人質(西軍の為、形式上?)となって大坂城にて捕われた。
しかし、この時も河原綱家の機転により逃亡することができて、上田城に帰還している。

関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利すると、1600年12月13日、真田昌幸と真田幸村の親子は16人の家来と、真田幸村の妻女を伴って、九度山に幽閉された。
しかし、山手殿は真田信之のもとで、上田城に留まり、出家して名を寒松院と改めた。
1601年頃からは大輪寺で余生を送っている。

1613年6月3日死去。法名・寒松院殿宝月妙鑑大姉。墓所は大輪寺(長野県上田市)、大林寺(長野県長野市)。

なお、夫・真田昌幸が九度山で亡くなったのは、1611年6月4日で、山手殿が死去した6月3日に三回忌を済ませたようで、山手殿は自害したと言う説もある。

松代・大林寺

下記は松代城下にある、寒松院殿(山手殿)の菩提寺・大林寺です。

松代・大林寺

上記入口の左脇に駐車場もありました。
大林寺の駐車場の場所ですが、下記の地図ポイント地点となります。

すぐ近くに、稲姫(小松姫)の菩提寺・大英寺もあります。
なお、大林寺には山手殿の墓以外に、矢沢一族の墓や、鎌原一族の墓、そして出浦昌助の墓(出浦昌相)もあるそうでして、またしても宿題ができてしまいました。

★真田家のおすすめ記事
河原隆正(河原丹波守隆正)と河原綱家(河原右京亮綱家)
岩櫃城【いわびつじょう】訪問記 真田幸隆のアイデア溢れる連携陣形
小野お通(小野於通、小野通) 戦国時代に名を残す謎多き京の才女
信州上田・真田の里紀行 観光所要時間ルートなどご紹介
真田幸村と大河ドラマ「真田丸」 真田幸村とは、その実像は?
九度山とはどんなところ 真田庵・真田屋敷
真田十勇士とは~真田十勇士の一覧リスト
真田幸村(真田信繁)の妻と子供たち一覧表
宇多頼忠と宇多頼次とは?

コメント

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。