北条氏邦(北條氏邦)は、北条氏康の4男。兄に、北条氏政、北条氏照がいる。弟は、北条氏規、北条氏忠、北条氏光、上杉景虎。北条氏康の長男・新九郎(天用院殿)は夭折。
母は瑞渓院(今川氏親の娘)で、北条氏邦が誕生したのは1541年。幼名は乙千代丸。
北条氏康は、関東の有力諸将の娘と、自分の子を婚姻させ、支配を拡大して行く政策も取った。
北条氏邦と言う名での文書などは残っておらず、もっぱら藤田氏邦(安房守)と言う名が見られる。
北条氏邦が6歳である1546年に河越野戦で勝利した北条家に降った高天神城主・藤田康邦へ、婿養子として既に送られたか、約束したものと考えられる。
ちなみに、藤田康邦の正室は、滝山城主である大石氏の娘で、この大石家には北条氏照が同じく婿養子として入った。
北条氏邦(北條氏邦)が藤田氏邦として藤田家の家督を継ぐと、隠居した藤田康邦は用土城に居城を移して用土氏を称した。
一説によると北条氏康の「氏」、北条氏邦の「邦」を拝領して藤田重利から藤田康邦と名を変える(もしくは、名を与えられた?)事でさらに服属の意を表したとされる。
1555年に藤田康邦が死去。
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1560年、上杉謙信が天神山城を攻撃し、北条氏邦は一時本拠を失ったが、取り返している。
1564年頃?、藤田康邦の娘・大福御前と、北条氏邦が結婚したと考えられる。
1568年10月~1569年9月頃に28歳になった藤田氏邦(藤田安房守、北条氏邦)は、鉢形城に本拠を移し、以後、鉢形城は北条氏の北関東支配における重要拠点となった。
1569年、武田信玄が小田原攻めの際に途中で鉢形城を攻撃。守りが堅いのを見た武田信玄は、攻撃はほとんどせず、そのまま南下して滝山城に向かっている。
しかし、武田信玄を追撃し、滝山城主・北条氏照と合流し、三増峠の戦いで、武田信玄と一戦を交えた。
1574年、上杉謙信が鉢形城の城下に火を放った。
藤田康邦には実子である用土重連(用土新左衛門重連)・藤田信吉(用土信吉)(孫説も有り)がいた。
1578年5月、北条氏邦が上杉謙信の死後「御館の乱」が勃発すると、兄・北条氏照と共に北条家から上杉家の養子になっていた上杉景虎を支援すべく、越後に出兵。
三国峠を越えて樺沢城を占領し坂戸城を攻撃したが、上杉景勝・直江兼続らは粘り強く防衛した為、北条氏邦・北条高広らは樺沢城に駐屯し、北条家本隊は撤退した。
この結果、上杉景虎は翌年に悲運を辿っている。
なお、この際に上杉勢力下にあった沼田城を北条氏邦(北條氏邦)は北条家の物としたが、小田原城の北条氏政・北条氏直は、用土重連と金子泰清を沼田城代に任命したのを快く思わなかったのか? 同じ年の1578年に北条氏邦は沼田城で用土重連を毒殺。
用土重連死去の真相を知らない北条氏政は、後任として藤田信吉を沼田城の城代に任じたが、1580年8月、藤田信吉は真田昌幸の調略により武田勝頼を頼って離反し、沼田城は武田勝頼の支配下となった。
1582年、明智光秀による本能寺の変のあと、織田家家臣の滝川一益との神流川の戦いでは、北条家当主の北条氏直を補佐して、滝川一益を敗走させている。
その直後の天正壬午の乱にも参戦。
鉢形衆には下記のような名が見られる。
鉢形城主 北条氏邦
指南約 由良・白井長尾・足利長尾・小幡・和田・浦野・阿久沢・赤見
小指南 三山綱定
鉢形城代 藤田政邦・三上氏郷
沼田城代 藤田重連(用土重連)・藤田重信・猪俣邦憲
箕輪城代 猪俣邦憲
厩橋城代 笠原康明・垪和康忠
虎ヶ岡城代 猪俣範宗
天神山城代 岩田義幸
金窪城代 斎藤定盛
日尾城代 諏訪部定勝
龍ヶ谷城代 久長但馬
雉岡城代 横地忠春
1587年前後より関東平定を狙う豊臣秀吉から徳川家康を通じて上洛要請があり、北条氏規が代理として上洛し豊臣秀吉と面会したが、これについて北条氏邦は強く反対している。
1589年春、真田家と争っていた沼田領は、3分の2が北条氏に、残り3分の1を真田氏に割譲すると言う豊臣秀吉の最終裁定が出された。
上野国を任されていた北条氏邦にとっては、到底納得できるものでは無く、北条家が滅亡するきっかけとなった、1589年10年の猪俣邦憲による名胡桃城侵攻を指揮した人物だともされ、同時期に豊臣勢の宇都宮国綱を攻めるなど活躍している。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、北条氏邦は小田原城に籠もることに反対し、大規模な野戦で迎撃することを主張したが容れられず、居城・鉢形城にて籠城し、北国軍に対応した。
豊臣勢の北国軍は前田利家・上杉景勝・島田利正・真田昌幸、徳川家康家臣の浅野長吉、本多忠勝、鳥居元忠らの35000で、5月13日に鉢形城を包囲。
この戦いには、藤田信吉も豊臣勢の上杉景勝の家臣として加わり、鉢形城攻撃も行ったが、国峯城を落とす功もあげている。
鉢形城に籠る北条氏邦は黒沢秋則(黒澤秋則、黒沢上野介秋則)らと共に3000(3500とも)が約1か月に渡り籠城したが、本多忠勝らが車山から、28人で運んだとされる大砲にて撃ち込み、城内の被害が甚大であったことから、6月14日、城兵の助命を条件に開城。
本曲輪の下を流れる荒川崖は「お万が淵」と呼ばれ、落城寸前の状況を憂いた城中の女人が飛び降りて自害したとも伝わる。
前田利家の取り成しで、豊臣秀吉は北条氏邦の命だけは助け、剃髪した北条氏邦は前田利家に預けられ、前田家の元にて能登津向(今の七尾)に知行1000石を得た。
その後、北条氏邦は金沢で暮らし、1597年57歳で病没した。
金沢では武蔵正龍寺での大法要に集まった参列者は北条氏規や北条旧臣や領民などを含め、ひと山を越える長さに及んだと伝わり、かつての威勢と人望を偲ばせたと言う。
正室の大福御前は正龍寺にて出家することで、鉢形に残ったものの1593年6月9日に病死したとも、鉢形山城落城の際、自害したとも言われている。
大福御前の自害説で考えると、北条氏邦は小田原城の籠城に加わっていて、鉢形城の指揮は大福御前が取っていたのでは? なんて想像も膨らんでしまうが、大福御前の弟が藤田信吉で、北国軍の上杉景勝の先鋒として活躍していた事から、藤田信吉に頼み、多くの城兵の命を救ったとされている。
寄居の正龍寺が藤田家の菩提寺で、藤田康邦夫妻と北条氏邦夫妻の墓がある。その正龍寺の門前から右に入った畑の中に「大福御前自刃の碑」が建っている事実もある。
北条氏邦の子としては東国丸、亀丸、光福丸、庄三郎、北条直定(養子)がいたが、詳細は良くわからない。
庄三郎は北条家滅亡後、京都紫野大徳寺で仏門に入っていたが、北条氏邦が亡くなると、北条氏邦の知行を相続して家督を継ぎ、前田家臣で前田家縁戚でもある前田慶次郎(前田利益)の娘を妻とした。
下記の動画は、寄居北條祭りの北条氏邦ら武者行列
・鉢形城~北条氏邦が改修した城の訪問記
・雉岡城 (雉ヶ岡城)わかりやすい解説~横地忠春が守った城跡
・寄居北條祭り観覧報告と合戦・大砲発射の動画
・北条高広 2度も上杉謙信に背くも2度復帰?
・神流川の戦いの現場を往く~美学にこだわった滝川一益の撤退戦
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