北条高広 2度も上杉謙信に背くも2度復帰?

北条高広

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北条高広(きたじょう-たかひろ)は、1517年?に、北条高定の子として生まれました。

最初にハッキリさせて置きますが、鎌倉時代の北条氏や、小田原城の大名・北条家とは関係ない、越後・北条家(きたじょう)の戦国武将となります。

新潟県柏崎市にある越後・北条城の城主で、上杉家に仕えていました。

越後北条氏からは、近隣の越後・安田城主として分かれた一族の安田広春もいますが、安芸の戦国大名・毛利元就も遠い一族となります。

1524年(または1530年)に、越後北条氏の家督も兼任していた安田城主・安田広春には子がいなかったため、北条氏の家督は養子の北条高広、安田氏も同じく養子の安田景元がそれぞれ継承しました。

なお、毛利高広、喜多条高広、北条弥五郎、安芸入道芳林など北条高広には別名がたくさんありますが、長尾為景、そして長尾晴景に仕えていました。
北条高広は器量、骨幹、人に倍して無双の勇士とも称されています。

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しかし、長尾景虎(上杉謙信)のときである天文23年(1554年)、北条高広は甲斐の武田信玄に通じて、主君・長尾景虎に反乱を起こして籠城します。
この謀反を通報したのは、安田景元で、すぐさま長尾景虎の反撃を受けて、越後・北条城は降伏しました。

ただし、長尾景虎(上杉謙信)は寛大で許しており、その後も北条高広は、上杉家の奉行として活躍し、信頼されました。

そして、永禄6年(1563年)には、上野・厩橋城主に抜擢され、関東方面における上杉家の統治を任されています。
ところが、上杉謙信が下総・臼井城を攻めた際に敗北すると、関東の諸将は上杉家から次々に離反し、翌年の永禄10年(1567年)、北条高広も小田原城の北条氏康に通じて、再び背きました。
このとき、上杉謙信は、再び関東に出陣すると前橋城を奪い返しています。

なお、小田原・北条家(ほうじょうけ)において、北条高広は主君と同じ漢字の名前は不都合ということで、喜多条高広と改名しています。
しかし、その翌年に、上杉謙信と北条氏政は、越相同盟を結んだため、北条氏政の仲介を受けて、北条高広は再び上杉家に帰参して前橋城に入ると、以後は上杉家を離れず仕えました。

高齢となった北条高広は、1574年に隠居して大胡城に移り、家督は嫡男・北条景広に譲っています。
ただし、隠居先は片貝城ともされます。

1578年、上杉謙信が急死すると出家して安芸入道芳林と号しました。
御館の乱になると、北条高広の実父・石曽根高定が上杉景勝勢に殺害されるなどしたため、子の北条景広と共に、上杉景虎(北条三郎)を支援して、上杉景勝らと争いました。
北条高広は景虎勢における中心人物のひとりになっており、小田原の北条勢などと一緒に坂戸城などを攻撃しています。
しかし、1579年2月1日、北条景広が府中八幡宮を参籠した帰りに、景勝勢の荻田長繁が待ち伏せ・襲撃し、北条景広は槍を受けて負傷し、それが致命傷となって死去しました。
以後、景虎派は求心力を失い、離反者が続出し、越後・北条城の北条輔広も降伏したため、北条高広はやむを得ず、武田勝頼を頼って信濃に所領を得ました。
その後、越後北条氏の家督は、次男・北条勝広が継いでいます。

天正10年(1582年)3月、織田信忠の甲斐侵攻によって武田勝頼が自刃し武田が滅亡すると、大胡高繁らと箕輪城に入った滝川一益に臣従しています。
しかし、本能寺の変となり、神流川の戦いで敗れた滝川一益が伊勢に逃亡すると、再び小田原の北条氏直に服属しました。
ところが、沼田城真田昌幸が北条家から離反した際には、前橋城からの出兵を拒否し、今度は、春日山城の上杉景勝を頼って帰参し、小田原・北条勢の那波顕宗を攻撃しています。

この裏切りに対して、北条氏邦・北条氏直らは、北条高広が籠城した厩橋城を攻めたため降伏し、天正11年(1583年)9月に、厩橋城は北条氏直の支配下となりました。

その後の北条高広の動向は不明ですが、1587年までは生存していたことが確認されています。


のちに、次男・北条勝広は許されて、上杉家に復帰したともされますが、越後・北条城への帰還は果たせていません。
また、同名の4男「北条高広」(北条高明)が、直江兼続に仕えて継承者と定められましたが、1600年の最上攻めにて討死し、越後北条氏は没落しました。
もちろん、諸説ありますので、上記が正しいとは限りません。

越後・北条城 ここにも大江広元からの毛利家一族が
栃尾城 越後の龍・上杉謙信「旗揚げ」の山城
春日山城 戦国の息吹を感じ妄想も広がる山城
御館の乱 上杉謙信死後の壮絶な跡継ぎ争い
上杉謙信・長尾景虎・上杉景虎の人物像に迫る
直江兼続~戦国の上杉家を支えた智勇兼備の名将
上杉景勝とは~豪毅果断・潔白謹厳

 

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