安田能元 和歌も嗜む文武両道の上杉家奉行

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安田能元

安田能元とは

安田能元(やすだ-よしもと)に関しては、江戸時代まで生きた武将のため、少しはよくわかっています。
1557年に、越後・安田城にて生まれて、幼少の頃より上杉謙信の小姓となりました。

兄が死去したあと、1580年9月25日、上杉景勝より本領を安堵された他、追加で堀江宗親の旧領が与えられました。
安田上総介能元は内政に優れて手腕を発揮していたようです。

1582年、新発田重家が反乱を起こすと、鎮圧に参加しましたが、放生橋の戦いにて、殿軍(しんがり)を務めた際に片足を負傷しました。
負傷した足には後遺症が残ったため、以後「跛上総」と武勇を讃えられました。
跛(ちんば)と言うのは、足が不自由という意味で、上総というのは官名になります。


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1586年、上杉景勝が豊臣秀吉にいち早く臣従すると、上杉景勝が越後を留守にした際には、安田能元が政務を担当するようになりました。
また、文禄元年(1592年)に朝鮮攻めとなると、藤田信吉と共に越後・春日山城の留守居役を務めています。

なお、泉沢久秀が作成した文禄三年定納員数目録では、安田能元は2474石とあります。

慶長3年(1598年)、上杉家が会津120万石へ国替えになった際には、浅香城と二本松城を守備しました。

この頃の安田能元は11000石と家臣分3200石を与えらた大名並の待遇で、岩井信能、大石綱元と共に会津三奉行となりますが、その筆頭になっています。
伏見城の上杉景勝から、神指城の築城、道橋の普請、浪人の召抱え、武具の整備などを命じらた他、上杉氏に仕官した前田利益(前田慶次郎)と親交を結んでいます。

1600年、徳川家康が上杉氏征伐のため会津に向かうと、小峰城を守備して、革籠原にて島津忠直と共に一番隊を率いる予定となりました。
そして、1601年、上杉家は出羽・米沢城に30万石にて減封とにると、安田能元も浅香城、二本松城を明け渡しています。

米沢では、直江兼続などと城下町の整備や町割りなどを行いましたが、安田能元は4330石に減りました。

1602年、直江兼続主催の歌会には、大国実頼、岩井信能、春日元忠、前田利益などと共に亀岡文殊堂で参加しています。
和歌も嗜む文武両道でした。

1612年、直江兼続、水原親憲、岩井信能、山岸尚家、平林正恒と共に十七箇条の家中法度の制定にも参加しました。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では、「第二陣には、第一陣よりもより強い大将を」と言う上杉景勝の方針にて、安田能元は第二陣となっています。


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鴫野の戦いにて、大野治房に押された第一陣の須田長義は崩れますが、水原親憲が鉄砲隊にて反撃し、安田隊は500にて大野治房を撃退しました。
功績があった安田能元でしたが、徳川家康は冠状や褒美を与えていません。
これに対して安田能元は「感状を賜らなかったからといって、そのことを決して不名誉とは思わない。それに自分は殿のために戦ったのであって、大御所様や将軍様のために戦ったのではない」と言い、大坂の陣で徳川秀忠から感状を貰って喜んでいる直江兼続を皮肉っています。

元和8年6月25日(1622年8月2日)、安田能元は66歳で死去。
家督は、同じ大江一族である那波顕宗から養子になっていた安田俊広が継ぎました。

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