樋口兼豊(樋口惣右衛門兼豊)の解説~直江兼続の父であり長尾氏の重臣である戦国武将

戦国武将列伝Ω





樋口兼豊とは

直江兼続の父・樋口兼豊 (樋口惣右衛門兼豊) について

樋口兼豊(ひぐち かねとよ)は、戦国時代の武将で、越後・長尾氏に仕えていた。
樋口氏は木曽義仲の四天王の一人・樋口兼光(樋口次郎兼光)の末裔と伝わる由緒ある家柄。
直江兼続の父である樋口兼豊は、当ページの冒頭でも触れたとおり薪炭用人と身分の低い武士だったと言われているが、この説は江戸時代に書かれた新井白石著作の「藩翰譜」に記載されているからである。

しかしながら、樋口兼豊の妻は、信州高井郡の豪族でのちの飯山城主になったと考えられている泉重蔵の娘、もしくは、直江景綱の妹(藤)とも言われている。

藤(ふじ)生年不詳~1585年8月18日没
直江親綱の娘で、直江兼続・大国実頼らの生母とされる。法名は月嶺宗心禅定尼。

蘭子(らんこ)1539年?~1604年?  継室か?
信濃国の有力豪族・泉重歳の娘。近年の研究では、直江兼続・大国実頼らの生母という説も浮上している。法名は蘭室妙香大姉。



このように樋口兼豊の妻は、名の知れた武士の娘で、ある程度身分が高い事から、小生は、実際の樋口兼豊も長尾政景の重臣だったのではと存じている。
本当に薪炭用人だったとしても、それは最も若い頃で、その後、メキメキと頭角を表し、長尾政景に重んじられて家老格となり、身分の高い娘と結婚したものと小生は考える。

直江兼続の父である樋口兼豊は、1578年の御館の乱での戦功や新発田攻めの功などにより、1584年11月24日には直峰城主に命じら、11月27日には、上杉景勝より本領・新地とも郡司不入の待遇を与えられた。
1594年頃、樋口兼豊の知行は809石1斗6升4合。同心衆として下平彦兵衛、登坂与総右衛門、北村監物、登坂弥太郎、滝沢孫兵衛、岡村源助、上村三郎右衛門、星次郎左衛門、香坂三郎右衛門、山田杢之助、吉田作右衛門、井田玄蕃、浅間縫殿、小市源左衛門の14人を抱えている。

新発田攻略の翌年、1588年4月16日には伊予守。
1598年の上杉景勝の会津転封に従い、3000石となったが、米沢に移ってからは1000石となった。
1602年9月12日没。

樋口兼豊には3男3女がおり、長男・直江兼続は直江家、次男・直江実頼は大国家(小国家)を継ぎ、三男・樋口与八(樋口秀兼)が樋口家を継いだ。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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コメント

    • ktm
    • 2015年 10月 09日

    はじめまして

    上記の管理人様の分に水をさす訳ではございませんが、樋口与八のご子孫は「米沢ではなく」⇒「小国町」です(様です。)・・わたくし地元なので!

    しかし、自宅を探しあてた取材陣や観光客との接触は一切なさらないそうです。

    以上

    • 高田哲也
    • 2015年 10月 09日

    ktmさま、この度はご指摘を賜りまして、誠にありがとうございます。
    参考にした本などに記載されていたのだと思うのですが、現時点で米沢と確認が取れないため、一旦、該当文を削除対応致しました。
    また、おかしな点がありましたら、ご指摘を賜りますと幸いでございます。
    以上、深く御礼申し上げます。

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