村上元吉と村上景親~村上水軍を引き継ぐも三津浜夜襲にて討死

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村上元吉(むらかみ-もとよし)は、1553年に能島村上水軍の頭領であり、能島城主である村上武吉の嫡男として誕生した。
母は正室である村上通康の長女。

1558年には村上元吉の弟・村上景親(むらかみ-かげちか)も誕生。
母は継室である村上通康の次女。

1576年、毛利水軍と織田水軍が対決した第1次木津川口の戦いでは、父・村上武吉の代わりに村上水軍の大将として村上元吉が指揮を執り、織田水軍に壊滅的な打撃を与えた。
しかし、2年後の第二次木津川口の戦いでは、父・村上元吉が指揮を執っており、村上元吉(村上少輔太郎)は能島城を守備していたものと推測される。

能島城

1578年の上月城の戦いでは、弟・村上景親(村上三郎兵衛尉)の名が見受けられる。

1582年3月、来島村上家の来島村上家・来島通総、村上通昌が羽柴秀吉(豊臣秀吉)の調略を受けて、織田勢に寝返った際には、父・村上武吉と共に追討している。
この1582年頃に、村上元吉(村上掃部頭元吉)が家督を相続したようで、村上海賊衆の頭領となった。


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兄・村上元吉の正室は小早川隆景の養女であり、元吉の名も毛利元就から一字を賜っている
弟・村上景親の正室は平岡房実の娘。

しかし、1582年、織田信長明智光秀による本能寺り変にて横死すると、能島村上家が従っていた毛利輝元も台頭した羽柴秀吉(豊臣秀吉)に臣従。
1586年には、宣教師ガスパール・コエリョからの要請で、南蛮船が西国に戻る際、瀬戸内海を安全に通行できるよう、家紋が入った村上水軍の旗を貸与し、コエリョの安全を保障している。
ただし、父・村上元吉、村上元吉、村上景親ら能島村上水軍は、豊臣秀吉に協力しなかったため、小早川隆景に攻められて能島城を放棄した。
そのため、一族は小早川領の竹原に移され、鎮海山城を築いたものと考えられ、6700石程度の所領も得ていたようだ。

村上水軍

1588年に海賊停止令が発布されたが、その後も海上通行料を徴収していた村上元吉らは、海賊禁止令に違反したとして、小早川隆景が移っていた筑前・加布里(福岡県前原市)へと追いやられ山口宗永の屋敷に仮住まいした。
こうして、海賊衆としての活動が不可能になった村上水軍は衰退を余儀なくされた。

1592年からの朝鮮出兵では、毛利水軍の一員として輸送などに従事したが、朝鮮水軍に大敗を喫した。
なお、弟・村上景親は、捕虜にした朝鮮貴族・両班の娘を日本に連れて帰って側室にしており、村上元信が1610年に誕生している。

小早川隆景が隠居すると、父と村上元吉は毛利家に帰参したが、弟・村上景親はそのまま小早川家に残り、小早川秀秋の家臣となった。
しかし、1597年、小早川隆景が死去したあと、弟・村上景親も毛利輝元の家臣に帰参し、1598年、豊臣秀吉が没すると、毛利輝元は村上武吉・村上元吉・村上景親らに対し、竹原4700石を与えた。

1600年、関ヶ原の戦いの前哨戦にて、西軍・石田三成に味方した毛利勢としては、阿波・蜂須賀家政の所領を村上元吉と村上景親が水軍を率いて攻撃に参加し、因島水軍・村上吉忠らと阿波・猪山城(徳島城)を落城させている。
その後、弟・村上景親は関ヶ原に向かい大津城攻め、安濃津城攻めに参加。
兄・村上元吉は引き続き毛利水軍として興居島へ上陸した。
更には9月17日に伊予・三津浜(松山市古三津)へ上陸して、伊予・荏原城主である平岡直房らと合流。
そして、加藤嘉明の居城である伊予・松前城(正木城)に曽根高房を送って降伏勧告をした。

加藤勢の守将・加藤忠明(加藤嘉明の弟)や足立重信、佃十成らは一計を案じ、佃十成が仮病を使って曽根景房に直接会わず、降伏開城するため妻子などを逃す時間が欲しいと返答する。
そして、近隣百姓に酒肴を持たせて毛利勢の陣所を見舞った。

籠城している兵数も僅かであり、酒も入って油断した毛利勢は、9月17日夜半から18日に、佃十成が率いる少数の部隊の急襲を受けた。三津浜夜襲、三津刈屋口の戦いである。
佃十成らは火を放ちながら夜襲を掛け、毛利勢は村上元吉と曽根景房らが討死。宍戸景世も負傷し敗走した。
村上元吉は享年48。

戦闘はさらに久米郡如来寺、浮穴郡荏原城、和気郡山越付近でも続いたとされるが、毛利勢はいずれも敗戦し、風早浦から船にて安芸へと引き返した。

村上元吉の墓所は安芸国竹原にある鎮海山城跡。

村上元吉の墓

また、松山の三津浜で討死したとされる場所に、村上大明神がある。

能島村上家の家督は、父・村上武吉の後見を受けた嫡男・村上元武が継いだ。

毛利輝元が防長2ヶ国に移封となると、村上武吉は周防大島(屋代島)に渡って和田に移住した。
村上景親はその武勇から、細川忠興池田輝政から家臣へと誘われたと言うが、父に従っており、毛利家御船手組の組頭になった。

村上景親は晩年、病床に倒れたが、大変美しかったとされる朝鮮貴族・両班の娘は、懸命に看病したと伝わっている。
村上景親、1610年2月9日死去。

村上景親が初陣の際に父より贈られたと言う笛は、能島村上家の家宝として現存していると言う。

三津浜・村上大明神

と言う事で、三津浜にも行って参りました。
下記が村上大明神です。

村上大明神

住宅街の狭い道路脇にあります。
場所は下記の地図ポイント地点です。
駐車場はありませんし、狭い道路に車を止めるのも、困難です。

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