加藤嘉明~海戦も陸戦も得意だった戦国大名


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加藤嘉明(かとう-よしあき)は、松平元康(徳川家康)の家臣・加藤教明の長男として1563年に三河で生まれました。
母は堀部氏の娘です。

生まれた年に三河一向一揆があり、父は徳川家康は一向一揆と対決します。

この時、父・加藤教明は、本多正信本多正重、渡辺守綱、蜂屋貞次、酒井忠尚、夏目吉信、内藤清長らと「一向一揆」側に加勢しましたが、徳川家康に敗れたため、流浪の身となりました。

10年後の1573年、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が長浜城主となると、広く家臣を募っていた事もあり、父・加藤教明は矢嶋郷に300石で家臣に加わっています。

そして、加藤嘉明は見いだされて羽柴秀勝(織田信長の四男)の小姓となった訳です。

ここで注意しておきたいのは、豊臣秀吉の家臣には、加藤嘉明、加藤光泰加藤清正など、加藤さんが多数出てきます。
秀吉に仕えた「三加藤」とも呼ばれますが、それぞれ異なる加藤家となりますので、念のため、記載しておきます。

300石で豊臣秀吉の直臣となると、1578年の三木城攻めで初陣を飾り、加藤嘉明(加藤茂勝)は15歳にして首を2つも取ったと言います。

正室は堀部市右衛門の娘で、1592年になって嫡男・加藤明成が生れています。

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その後、清洲会議を経て、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、福島正則、加藤清正、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元平野長泰らと共に活躍し、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられ3000石となりました。

1585年に、豊臣秀吉が関白になると、加藤嘉明は従五位下・左馬助(さまのすけ)を拝領しています。

四国攻めでは小早川隆景の与力として、伊予の河野通直を攻めました。
その功績により、1586年11月2日、24歳にして加藤嘉明は15000石にて淡路の志知城(志智城)主となり、淡路水軍を率いました。

1587年の九州攻めや、1590年の小田原攻めでも淡路水軍を率いて、伊豆・下田城などを攻撃しています。
このように、豊臣家における水軍の九鬼嘉隆に次ぐ副将格として淡路水軍を率いて、朝鮮出兵でも戦いました。

1594年7月には、伊予・松前城(正木城)を加増されて合計6万石となり、松前城(正木城)を本拠としています。
この前後に、塙直之(塙団右衛門)が家臣に加わっています。

豊臣秀吉が没し、前田利家も死去すると、加藤清正、福島正則、黒田長政細川忠興浅野幸長池田輝政らと加藤嘉明(37歳)の7将は、石田三成暗殺を企てた事件を起こし、石田三成佐和山城への蟄居と追いやりました。

1600年、関ヶ原の戦いでは、徳川家康に味方して陸路従軍し、本戦では石田三成勢と戦いました。

この時、留守にしていた松前城(正木城)には、能島水軍・村上元吉因島水軍・村上吉忠、曽根景房(曽根兵庫)、平岡直房らが押し寄せるも、留守を守る加藤忠明(加藤嘉明の弟)や足立重信、佃十成らが一計を案じ撃退しました。

こられ関ヶ原の功績により、伊予20万石となり、1601年に勝山城(松山城)の築城許可を得た他、城下町の整備を始めました。

1603年、加藤嘉明は本拠地を勝山城に移し、地名を「松山」と改名しました。

1614年、大坂冬の陣では豊臣恩顧と言う事もあり、加藤嘉明は江戸城留守居となった為、嫡男・加藤明成が出陣しています。
ただし、1615年の大阪夏の陣では、加藤嘉明(53歳)も自ら出陣し、2代将軍・徳川秀忠の軍勢に加わって武功を挙げました。
加藤嘉明は水軍だけでなく、鉄砲を用いた陸上でも戦に長け、特に統率力が高かったと言い、軍法を伝えるほどの武将でした。

1619年、福島正則が改易となった際には、福島正則の身柄を加藤嘉明が預り、広島城の接収も務めました。

1627年、会津の蒲生氏が減封となって伊予松山藩へ転じる、入れ替わりとして、加藤嘉明が会津藩へ移封されると43万5500石となり、会津若松城を本拠としました。
なお、三男・加藤明利は三春城主として3万石となり、女婿・松下重綱も二本松城主となっています。

会津・鶴ヶ城の現在の姿は、加藤嘉明が改修したものです。

1631年、病となると9月12日に江戸・桜田の藩邸で死去しました。享年69。
麻布の善福寺で荼毘に付され、遺骨は東本願寺大谷祖廟に葬られました。

しかし、子の加藤明成が重臣・堀主人と対立したのをきっかけに、1643年、会津40万石は幕府に召し上げられることになりました。
ただし、加藤嘉明の勲功もあったことから、加藤明成の子・加藤明友には近江水口(水口城)2万石が与えられて、家名は存続しました。

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