塙団右衛門~塙直之とは?独眼竜に認められた風雲児


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塙直之(ばん-なおゆき)は、1567年生まれとされるが、その出自や生い立ちには謎が多い。
また、塙団右衛門(ばん-だんえもん)の名でも知られる。
北条綱成の家臣、遠州横須賀衆の須田次郎左衛門が塙直之だと言う話、小早川隆景の家臣・瀧権右衛門に仕えていたが浪人したとも、色々な説があり、良くわからない。
いずれにせよ、塙団右衛門が最初に武名を上げたのは朝鮮出兵である。


このとき、加藤嘉明の家臣に加わっていたようで、朝鮮の番船を乗っ取ると言う大功を挙げた。
その功績で1000石として鉄砲大将となり、塙団右衛門直之と改名したとされている。

1600年、関ヶ原の戦いでは鉄砲大将でありながら、命令に従わず勝手に足軽を突撃させ、自らも槍を取って敵中へ一騎駆けをしたため、加藤嘉明の勘気を被り「将帥の職を勤め得べからず」訳すると、将の役目を勤める能力がないと叱責された。
これに怒った塙団右衛門(塙直之)は「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎」(小さな水に留まることなく、カモメは天高く飛ぶ)と書いた紙を城門に張り付けて出奔。
そのため、加藤嘉明は奉公構(他家が召抱えないよう伝える)とした。

このように奉公構ではあったが、小早川秀秋が遠慮せずに塙団右衛門(塙直之)を1000石の鉄砲大将として召し抱えている。
しかし、1602年10月、小早川秀秋が死去し断絶となったため、浪人した。

その後、小笠原吉光の知遇を得て、徳川家康の子・松平忠吉に仕えたが、こちらも1607年3月に死去し断絶。
次いで福島正則が1000石の馬廻として召し抱えたが、名古屋城築城の際に加藤嘉明が、直接、福島正則に抗議したためまた浪人となり、鉄牛(てつぎゅう)と名乗る禅僧になった。

こうして、大阪冬の陣では豊臣秀頼淀殿らの誘いを受けて還俗すると、10人程を引き連れて大阪城に入った。
浪人衆の1人として大野治房の配下に加わり、和議が迫った頃、夜襲の許可を得ると、1614年11月17日、塙直之は米田監物と共に150にて蜂須賀至鎮の陣に夜襲した。
この時、敵の中村右近など約100を討ち取るなどの戦功をあげたが、この夜襲の目的は、敵陣に「本夜之大将ハ、塙団右衛門直之也」と記した木札を蒔き、名を挙げる為だったとされる。
塙団右衛門は本町橋の上で仁王立ちになり、大声で指示を出したとされ「大将の器」であることをアピール。
自ら天下に名を売り込んだ塙団右衛門(塙直之)は、後世の講談や小説で人気を博し「夜討ちの大将」として幾多の逸話もある豪傑として語り継がれるようになった。

翌年1615年の大坂夏の陣では、大将の1人に任じられ、緒戦の紀州攻めて大野治房と共に出陣し浅野長晟と戦った。

1615年4月29日、前哨戦の樫井の戦いでは、大野治房本隊の先鋒となり、和歌山城から北上する浅野長晟と対決。
仲が悪かった岡部則綱(岡部大学)隊が先行していると知ると、先鋒を譲るまいと一番槍の功名を狙って、またもや勝手に敵陣へ突撃した。

塙団右衛門(塙直之)は浅野家臣・田子助左衛門(多胡助左衛門)、亀田大隅、八木新左衛門、横井平左衛門(上田重安の家臣)らと戦うも、本隊との連携が取れず混戦となり、馬上で戦っていたところを矢に射られ落馬し、八木新左衛門の槍で突かれたと言う。(亀田大隅又は横井平左衛門が討ち取ったとも?)
推定で享年48。

なお、塙団右衛門(塙直之)の僚友・淡輪重政も敵に斬り込んで討死している。

この時、大将の大野治房は願泉寺にて食事をしており、敗報を聞くと慌てて退却した。

大坂城では生還した岡部則綱(岡部大学)が、勇士・塙直之を見殺しにしたとの噂となり、一時切腹を覚悟すると落城の後には名を変えて隠棲したと言う。

塙団右衛門(塙直之)の墓所は、泉佐野市南中樫井の熊野街道沿いにあり、淡輪重政の墓と並んでいる。

塙団右衛門の子・塙直胤(なおたね)は、広島藩主の福島正則に仕えたが、のち敵対した浅野氏が広島城主となると、母方の旧姓をとって櫻井平兵衛直胤と名を変えて浪人した。
その後、島根県の奥出雲で「たたら製鉄」を営み成功を治め、現在に至っている。

塙団右衛門(塙直之)の娘は、伊達政宗の側室に迎えられた?とされる。

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