平野長泰~七本槍の勇名を馳せるもその生涯は?





平野長泰(ひらの-ながやす)は、平野長治の子として1559年に生まれました
先祖は鎌倉幕府の執権・北条時政で、その庶流である、北条時政から14代の横井宗長が、姉婿である平野業忠(平野主水正業忠)の尾張・平野村を継承して、平野姓に改正したとされています。
その後、織田信長に所領を奪われた平野氏は浪人し、尾張・津島にて、公家・舟橋宣賢(清原宣賢)の子・長治を養子に迎えまして平野家を再興させました。

その平野長治が、平野長泰の父と言う事になります。



平野長泰(平野遠江守長泰)は、織田信長、そして羽柴秀吉(豊臣秀吉)と仕えて、1583年、柴田勝家との槍ヶ岳の戦いに弟・平野長重、従兄弟・石河兵助らと参戦します。
この時、平野長泰は、柴田勝家の秦奉行・小原新七と、松村友十郎を討ち取っています。
このように福島正則加藤清正加藤嘉明脇坂安治、糟屋武則、片桐且元らと平野長泰は、その功名から「賤ヶ岳の七本槍」と称され、将来を有望視されます。

そして、平野長泰(平野遠江守長泰)は3000石となり、小牧長久手の戦いでも活躍すると、1595年に大和・十市郡田原本などにて5000石となっています。

1598年には従五位下遠江守に叙任され、豊臣姓を下賜されました。
平野長泰の正室は24000石である土方雄久の娘で、1603年に嫡男・平野長勝が生れています。

しかし、この頃、加藤嘉明は既に伊予・正木城にて10万石などであり、平野長泰はその後、出世したとは言い難いです。
理由は諸説ありますが、石田三成とは仲が悪かったともされています。

豊臣秀吉の没後は、徳川家康に接近し、1600年、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の旗本として、真田昌幸との上田城の戦いにも参戦しましたが、関ヶ原本戦に遅参する結果となり武功を挙げる事はできなかったようです。
なお、二条城の普請を担当したとありますが、それらも評価されなかったようです。

このように、徳川家においても処遇に不満を持ったようで、1614年、大阪夏の陣では、大阪城に入って豊臣秀頼に味方しようと考えましたが、徳川家から江戸留守居役を命じられています。

このように、平野長泰(平野遠江守長泰)は「賤ヶ岳の七本槍」の中で、唯一大名になれずに、1628年5月7日死去しました。

もっとも福島正則、加藤清正、加藤嘉明は改易されて所領を失いましたが、嫡男・平野長勝は、大和交代寄合表御衆・田原本の2代領主を務め、子孫は明治まで続いています。

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