眞鍋七五三兵衛と眞鍋道夢斎と沼間任世と沼間義清と松浦安太夫と寺田又右衛門【村上海賊の娘】

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織田勢の水軍の将である眞鍋七五三兵衛(まなべ-しめのひょうえ)に関しては、あまり詳しくわからないが、泉州和泉水軍衆を率いたものと推測される。
眞鍋七五三兵衛が率いた和泉水軍(眞鍋水軍)は、元々、瀬戸内にある塩飽諸島・眞鍋島が出自なようである。

眞鍋七五三兵衛(真鍋貞友)の父は眞鍋道夢斎(眞鍋貞行)と称しており、1576年までに、和泉に渡ると織田信長の重臣・佐久間信盛軍の軍勢に加わったようだ。
佐久間信盛には、沼間水軍の沼間任世、松浦水軍の寺田又右衛門松浦安太夫の兄弟も配下に加わっていたが、眞鍋七五三兵衛と眞鍋道夢斎の親子が、沼間水軍、松浦水軍よりも権力を持ち、友が島水道を支配していたと推測できる。


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沼間水軍を率いた沼間道夢斎(ぬま-どうむさい)は、和泉綾井城主7000石で、別名は「沼間任世」(沼間任世入道)、沼間清成(ぬま-きよなり)と言う。
この沼間家は、和泉の豪族衆の中では旗頭であった。
なお、沼間義清(沼間越後守義清)と言う子がいる。
同族には、沼間興清、木積馬場館主・沼間正盛、鳥取箱作館主・沼間大隈守、家臣には谷山平左衛門、西村清右衛門、早水茂左衛門などがいる。

松浦安太夫(まつら-やすだゆう)は、別名を寺田安太夫、松浦宗清(まつうら-むねきよ)とも言う。
寺田知正の次男であるため、本姓は寺田である。兄が寺田又右衛門(寺田正家)となる。
兄弟で岸和田城主・松浦信輝(松浦光、松浦肥前守光)に仕えると、どうも下剋上をしたようで、1575年に兄・寺田正家(寺田又右衛門)と共に寺田安太夫は岸和田城主となり、岸和田水軍を率いた。
この時、兄弟で松浦姓を名乗り、織田信長に仕えたのちは豊臣秀吉の仕えた。
1584年、松浦安太夫は小牧長久手の戦いで戦功をあげ、伊勢にて10000石となり、1590年、石田三成忍城攻めにも参加している。
1600年、関ヶ原の戦いで松浦宗清(松浦安太夫)は西軍に属したため、改易されると預けられた南部利直のもとで、1628年に没した。


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第1次木津川口の戦い

さて、上記にてご紹介した織田水軍とも言える武将の働きとして、第1次木津川口の戦い(だいいちじ-きづがわぐちのたたかい)がある。

1576年、和泉衆の眞鍋七五三兵衛(しめのひょうえ)、沼間義清(沼間越後守義清)らは、織田信長より住吉城(住吉砦)の在番を命じられて、石山本願寺の包囲に参加。
織田勢は、石山本願寺の四方に砦を築いたのだ。
これにより、石山本願寺の本願寺顕如は、兵糧攻めを受ける様相となったため、危機に立たされた。

本願寺顕如は毛利家に救援を要請し、兵糧輸送を頼まれた毛利輝元は、7月13日に毛利水軍を発した。
この毛利水軍には、村上水軍村上武吉の嫡男である村上元吉も加わり、総大将は毛利家の重臣・乃美宗勝で、井上春忠、香川広景、児玉就英なども従っている。

この毛利水軍来襲を受けた織田水軍としては、九鬼嘉隆を総大将に眞鍋七五三兵衛、沼間道夢斎、松浦安太夫、寺田又右衛門、原田直政らが木津川の河口にて迎撃する体制を取った。

実際の戦闘では毛利水軍が使用した焙烙玉や、雑賀衆の焙烙火矢の前に、織田水軍は壊滅的な打撃を受け、毛利水軍は石山本願寺への兵糧搬入に成功した。


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この時、真鍋七五三兵衛、沼野伝内、沼野伊賀、沼野大隅守、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、尼崎の小畑氏、花隈の野口氏らが討死。
沼間任世(沼間道夢斎)と沼間義清(沼間越後守義清)も討死する結果となった。

木津川口は現在の淀川河口に当たると考えられている。

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