松野重元の解説~小早川秀秋を懸命に止めた忠臣

松野重元

松野重元とは

慶長5年(1600)の9月15日に起きた関ヶ原の戦い小早川秀秋の裏切りにより、東軍の勝利で幕を閉じました。その小早川陣営には秀秋の寝返りを阻止しようとした武将がいました。

その人物は松野重元(まつの-しげもと)。今回は秀秋を必死に止めようとした重元の生涯をご紹介します。

豊臣家臣時代

重元は豊臣秀吉の馬廻衆だった松野重定の子として生まれます。叔父には織田信長の馬廻衆だった松野一忠がおりましたが、本能寺の変後に自害。主君の後を追った殉死でした。


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また、父の重定は九州の役で討ち死に。父の跡を次いで重元も秀吉に仕え、天正19年(1591)には丹波国(現在の京都府中部)多紀郡に300石の領地を与えられました。翌年には豊臣姓を与えられ、1万石に加増されます。

文禄4年(1595)には小早川秀秋の重臣になることを秀吉に命じられ、秀秋に仕官。秀秋の元では鉄砲頭を命じられました。

小早川秀秋から田中吉政の家臣へ

関ヶ原の戦いでは、東軍に寝返ろうとした秀秋に不満を抱きます。そして、秀秋に反発すると、戦場から離脱。戦後は豊臣家を裏切らなかった忠義者としての評価を受け、田中吉政の家臣となります。


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重元の秀秋に対する行動は「武士の鑑」として称賛に価されました。

吉政が筑後国(現在の福岡県)柳川城32万石に加増されると、重元は松延城の城番家老として1万2000石を配されます。治水や堤防工事で才能を発揮し、自らが修理した川に重元の官位「従五位下主馬首」をかけて「主馬首川」と呼ばれるようになりました。

本多家の家臣へ

元和6年(1620)に田中家が2代目で後継ぎがいなくなり断絶。改易処分を下されると重元は徳川秀忠の子にあたる徳川忠長に仕えました。しかし、忠長が数々の問題行動により改易され、寛永10年(1633)に幕命で自害すると重元は浪人となりました。

その後も重元は駿府に残り、正保2年(1645)に本多忠義のもとで仕えます。そして、本多家が陸奥白河藩への移されると重元も従い、明暦元年(1655年)に83歳でその地で亡くなりました。

一説には京都で亡くなったとされています。

松野重元の子孫たち

松野重元の子孫も変わらず本多家に仕え、5男の松野重時は忠義の子である本多忠平が大和国(現在の奈良県)郡山に国替えすると、それに随行。元禄10年(1697)に病死しています。


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重時の子の重吉も本多家に仕えますが、本多忠烈(ただつら)の死を機に享保8年(1716)に郡山本多家は断絶。その後は近衛家に仕えました。また、重吉の子・典膳は鳥取藩重臣だった多田吉之進の娘婿に迎えられ、多田家の人間となりました。典膳が早世したことで多田家は典膳の娘婿が跡を継ぎますが、松野家は重吉の代で断絶していました。

寄稿(拾丸)

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