本願寺教如の解説~流転の人生を送り東本願寺を興した浄土真宗の僧

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本願寺教如

本願寺教如とは

戦国時代屈指の宗教勢力として隆盛を極めた石山本願寺を率いた指導者として名高い本願寺顕如ですが、彼は外部だけでなく内部との争いも抱えていました。その渦中にいたのが顕如の実子で、本稿の主人公である教如(きょうにょ)です。

教如は永禄元年9月16日(1558年)、顕如の長男として生を享けました。教如は幼名を茶々麿、諱を光寿と言い、永禄13年(1570年)には13歳で父のもとで得度しています。織田信長と本願寺勢力の戦いである石山合戦が始まったのもこの年で、得度したばかりの彼も顕如を補佐して信長と戦いました。その翌年に朝倉義景の娘・三位殿(四葩とも言う)と婚約を交わします。


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本願寺勢力と織田の戦いは10年に及び、顕如は正親町天皇が使わした勅使である近衛前久の仲介を受け入れて信長と講和、石山本願寺から紀伊の鷺森別院(和歌山県和歌山市)への退去を決めます。天正8年(1580年)の3月の事でした。

それまで父にしたがって戦いの日々を過ごしていた教如でしたが、彼は和睦に猛反対して徹底抗戦を敢行し、顕如から宗主を継いだとして和議反対派の信徒らと共に石山に籠城します。その抵抗も半年とは持たず、同年の8月に前久の説得に応じた教如も石山本願寺の明け渡しに応じました。

しかし、教如にとっての試練はまだ続きます。宗主後継者を“僭称”した一件が糸を引き、親子間の不和が生じたことから顕如は、教如と親子の縁を切って義絶してしまったのです。こうして勃発した“親子喧嘩”の根は深く、鷺森に入るも面会すら許されなかった教如は東海や北陸地方を流転することになってしまいました。

なお、その2年後に本能寺の変で信長が殺されると後陽成天皇の提案もあり、顕如は教如を赦免して親子は和解しているため、この義絶は策略であったとする説も存在します。その後、教如は顕如が亡くなるまで共にあり、本願寺を支えました。

こうして穏やかな日々を取り戻したかに見えた教如でしたが、文禄元年(1592年)に顕如が亡くなった事で再び渦中に巻き込まれていきます。豊臣秀吉から本願寺を後継する朱印状を賜るも、本願寺宗主を後継する際の譲状を作成しなかった事、そして石山本願寺に籠城した面々を側近に取り立て、父と共に退去した者達を軽んじたことなどから、禍根が残ってしまったのです。

翌年、顕如の正室にして教如の実母でもあった如春尼は顕如が作成したとする譲状を秀吉に提出し、教如は10年後に弟である准如に地位を譲るよう秀吉に命じられます。それに対して強硬派が抗議したために秀吉は怒り、教如は退隠させられてしまいました。

なお、教如退隠の陰には、かつて顕如と共に鷺森に退いた穏健派の働きかけとも、教如が豊臣勢力に近づく仲介者としていた千利休を排斥しようとした石田三成らの意向があったとも言われ、謎が多い事件です。


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秀吉没後、教如は金森長近を仲介して徳川家康に接近し、家康を大津に迎えたり、家康が天皇の勅許を背景にして京都七条烏丸に教如のために寺領を寄進するなど、親徳川として活動し始めます。そして、慶長8年(1603年)には上野国(群馬県)の妙安寺から親鸞聖人の木像を迎え入れ、東本願寺(准如が後継した七条堀川の本願寺の東にあることによる呼称)を興したのでした。

教如と家康の関係については、一向一揆の恐ろしさを知る家康による弱体化政策だったとも言われていますが、家康が西軍に味方した准如に替わって本願寺の宗主を継がせようとしても教如はそれを辞退し、本多正信も無理に教派を統一する必要性はないと進言したと言われています。

その後、教如は自らが分立させた東本願寺の運営にいそしむ一方で古田織部に師事して茶人としても大成し、宗教者・文化人として活躍しつつ、慶長19年(1614年)10月5日に本願寺教如は57歳で逝去しました。彼が興した東本願寺は、後に正式名を真宗本廟と改めますが、今もお東さんの愛称で数多い信徒の拠り所となっています。

(寄稿)太田

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