三浦按針(ウイリアム・アダムス) 5分でわかる 関ヶ原の戦いのころに日本に来たイギリス人の運命

三浦按針・ウイリアムアダムス

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ウィリアム・アダムス(William Adams)は、1564年に生まれたイギリス人です。
航海術を学ぶと最初はイギリス海軍に入りましたが、商船に乗船するようになり、のちオランダ・ロッテルダムから極東を目指す航海士を捜していると言う話を聞いて、弟・トマスらと応募しました。
そして、5隻の船団は1598年6月24日に、ロッテルダムを出向し、南アメリカのマゼラン海峡を抜けて、太平洋に出ます。
航海は困難を極め、2隻はポルトガルとスペインに拿捕され、1隻ははぐれてUターン。
ウイリアム・アダムスが乗船していたホープ号も太平洋で沈没し、残った僚船リーフデ号1隻となりました。
そして、1600年4月29日(慶長5年3月16日)、リーフデ号は九州の東岸となる豊後臼杵の黒島沖に漂着しました。
しかし、赤痢などで次々に船員は倒れ、出港時に110人だったリーフデ号は24名まで減っており、自力で歩ける者はウィリアム含めて6名だったと言います。

そして、徳川家康は5月12日(慶長5年3月30日)にウイリアム・アダムス(35歳)らと直接会いました。
すでにこの頃の日本には、イエズス会の宣教師らがいました。
宣教師らのスペイン・ポルトガルは同じキリスト教でも「カトリック」で、オランダ・イギリスは「プロテスタント」で、植民地・海外進出でもお互いに争っている状況です。
そのため、宣教師らは自分たちに都合が良いことばかり、徳川家康に進言したため、当初、ウイリアム・アダムスは海賊扱いされていました。
しかし、ウイリアム・アダムスは素直に航海の目的や宗教間の対立も説明し人柄がすばらしいことがわかり、処刑を主張する宣教師らの言葉を信じず、徳川家康は逆に気に入ります。
そして、ウイリアム・アダムスを旗本として採用し、通訳や外交上の助言をする役割を与えました。
事実上の政府外交顧問の役割を果たし、イギリスに有利な話ではなく、公平に様々な助言を行ったほか、徳川家康に数学・地理学を、幕府の要人には砲術・航海術・天文学などを教えたと言います。

なお、リーフデ号に搭載されていた大砲や鉄砲などは没収され、3ヶ月後に勃発した関ヶ原の戦いで徳川勢がカルバリン砲を使用したともされています。

江戸湾に係留していたリーフデ号が沈没し、徳川家康は、ウイリアム・アダムスに造船ができないかと訪ねます。
そして、1604年、伊東の砂地に日本で初めての造船ドックを設け、浦賀水軍・向井将監と約80tの日本初の洋式帆船を建造しました。
1607年(慶長12年)には120tの大型船を完成させた功績により、三浦半島・横須賀の逸見(へみ)にて250石の旗本となり帯刀を許されました。
こうしてウイリアム・アダムスは「三浦按針」(みうら-あんじん)と言う日本名を名乗ります。
按針と言う名は、水先案内人の意味となります。

なお、ヤン=ヨーステンも江戸城に屋敷を与えられ、耶楊子(やようす)と称します。
その屋敷があった場所は、現差゜位の八重洲あたりで、この耶楊子が変じて、現在の八重洲という地名になったとも言われています。
アダムスの江戸屋敷があった場所は按針町ですね。

なお、三浦按針には本国に妻と子もいましたが、日本でも、お雪?と言う女性と結婚して、息子・ジョゼフと娘・スザンナが生まれています。

1613年(慶長18年)に、イギリス東インド会社のクローブ号が日本の平戸に来航すると、徳川家康らとの謁見を仲介しました。
その船が、1614年(慶長19年)に帰還する際に、三浦按針はイギリスに戻るため、徳川家康の許しも得ました。
しかし、司令官のジョン・セーリスと喧嘩別れしたようで、自ら乗船することょ辞めています。
司令官は、日本人に接する際など、何事も日本式を強要するアダムズが気に入らず、アダムズを嫌っていたとされます。

その後、三浦按針は旗本の位を子の三浦ジョゼブ(2代目・三浦按針)に譲っていたため、平戸のイギリス商館の手伝い、琉球・シャムに航海などもしています。
やがて、徳川家康も1616年に死去し、跡を継いだ徳川秀忠は、鎖国体制を敷いたため、三浦按針は不遇となります。
1620年5月16日(元和6年4月24日)に平戸で死去しました。享年55。

以上、5分でわかるウイリアム・アダムスでした。
下記はオマケ情報です。


三浦按針は、平戸のイギリス商館付近にあった外国人墓地に葬られました。
しかし、その後、外国人墓地は破壊されたため、正確な埋葬地は不明です。
ただし、遺骨の一部を分骨したようで「安針墓」として伝えられてきた墓から、遺骨と遺品の一部が発掘されています。

また、横須賀の浄土寺には古い2基の宝筺印塔があり、逸見の山の上には三浦按針墓(国史跡)もあります。

ウイリアム・アダムスはイギリスの故郷イングランドのケント州ジリンガムにて、メアリー・ハインと結婚し、デリヴァレンスとジョンと言う子供も2人設けていました。
しかし、そもそも船乗りであった為、あまの家族を顧みず、常に航海に出ていたようです。
また、日本でも妻子がしましたが、晩年にはイギリスに帰ると言う決断もしておりまして、どうも、家族はないがしろにされている感じを受けます。
ただし、当時、イギリスから遠く離れた日本にはるばるやって来たという事は、そのような犠牲も伴う事だったのでしょう。

平戸のイギリス商館跡近くの崎方公園に「三浦按針の墓」が建立され、アダムスの生誕400年に際しては、イングランドの妻の墓地より小石を取り寄せ、夫婦塚として改めて供養しました。

あと、リーフデ号の船尾像であったエラスムス像は、現在、国の重要文化財として、東京国立博物館に収蔵されています。

また、現在、横須賀市とジリンガム市は姉妹都市として提携しているなど、すでれにせよ、ウイリアム・アダムスの日本における功績は大きかったと言えるのではないでしょうか?

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