一領具足




一領具足とは

一領具足(いちりょうぐそく)と言うのは、長宗我部氏が兵農分離を行う前に、農民や地侍を対象に武装させた兵・組織・屯田兵のことです。
織田信長が兵農分離を始めるまで、戦国時代の軍勢と言うものは、合戦の総兵力のうちだいたい3割程度が家臣・武士(常備兵)であり、残りの7割は農兵でした。
農兵と呼ばる兵は、普段は農民で田畑で作物を育てていますが、合戦になると招集されたりして、武器を持って領主に従って出陣する徴兵です。

農民も軍勢に加えますので、兵力は大きくできますが、農民は領内各地にいるため、召集するのに時間も掛かります。
また、田植えの時期や、秋の収穫期には、農民は、自分の田畑が心配で、合戦どころではありませんので、武田信玄上杉謙信も冬や夏にしか、合戦に出られませんでした。


土佐でも例外ではなかったのですが、この農兵が独自の進化を遂げます。

まず、一領具足を考案したのは長宗我部国親とも重臣・吉田孝頼とも言われていますが、長宗我部元親が積極的に運用しました。

一領具足には「開墾領地」の権利を与え、その代わりに長宗我部家は忠誠を求めました。
この土佐の一領具足ら農民は、農作業をする際に、近くに一領の具足を常に置いて仕事をしていたそうです。
すなわち、合戦ともなれば、我先にと参じて戦ったと言えます。

通常、農民の多くは、合戦で死にたくないので、喜んで戦いに行くようなことはありません。
「またか~」と嫌々ながらも命令にはそむけず出陣するものですが、その点、一領具足はやる気満々とも言え、長宗我部氏が兵力に劣っても強かった理由が分かります。
トップ写真は高知城の天守にあった一領具足です。


この「一領」と言うのは、鎧・甲冑を指す言葉で、ひとつだと一領、2つだと二領と言う意味です。
すなわち、農民は一領だけ具足(甲冑)を持っていたと言う事ですが、武将や武士の場合、予備として二領を戦場に持参したことから、正規兵と区別する言葉として、土佐では使われました。
土佐物語では「死生知らずの野武士なり」と記されています。

織田信長は、農民の繁忙期など関係なく一年中戦えるようにと、農兵を徴用するのではなく、農民の次男・三男などを「常備兵」として雇用し、城下町に住まわせ、軍勢の即応性も高めました。
これに対して、長宗我部元親は、農民が畑仕事に出かける際にも、一領(甲冑や武器)を持参させ、農作業中でも、声を掛ければ直ちに出陣できる体制を整えたのです。
一領具足の農民は半農半兵ですが、常に武器を携行し、ある程度、下級武士と言う身分を保証したようで、農民に対しての賦役も、一両具足は一部免除されたとあります。

下記はその一領具足供養の碑で、石丸塚とも呼ばれる胴塚です。

一領具足供養の碑「石丸塚」

浦戸城の西にある浦戸小学校の東側・墓地(石丸神社)にあります。

石丸神社

この付近は、一領具足の指導者である吉川善介らが集まって評定を開いていたところを襲撃された場所とされます。

一領具足供養の碑

浦戸城や一領具足供養の碑、戸ノ本の戦い跡などの場所は、当方作成のオリジナルGoogleマップ四国編の「高知」の欄をご確認賜りますと幸いです。
駐車場の場所も示しています。

なお、長宗我部元親の墓の近くにも、浦戸一揆にて討死した一領具足など兵士の墓とされるものが移転されています。

浦戸一揆の兵士の墓

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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