立石正賀を1分でわかりやすく解説~武勇名高い長宗我部氏の重臣

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立石正賀とは

立石正賀(たていしまさよし)は、戦国時代の1565年に誕生した。
通称助兵衛。父?(甥とも?)は立石右京進。立石摂津守の弟。
土佐・立石村の立石氏の出身で、はじめは一条兼定に仕えたとされる。

※一条兼定が四国追放されたのは1574年で、この時、立石正賀はまだ10歳である事や、一条兼定の嫡男・一条内政が追放されたのは1581年でも、立石正賀は16歳である為、厳密には一条家臣とは考えにくいが、立石正賀の父・立石右京進が一条家の家臣だったと言う事だろう。

一条内政が土佐から追放された後は、長宗我部元親に仕え、久武親信に従って伊予国などを転戦し、1580年には三滝城主・北ノ川左衛門大夫を討つなどの戦功があった。
1582年の高森城攻めや深田城の戦いでは、物頭・深田太兵衛を討つなどし、長宗我部家の重臣に加わった。

1589年~1597年の間に立石右京進が亡くなった為、立石家の家督を相続。

長宗我部元親が臨終した際は、長宗我部盛親、中内兵庫、町又五郎、豊永藤五郎らと共に、長宗我部元親より後事を託された。


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後を継いだ長宗我部盛親は、関ヶ原の戦い石田三成の西軍に参加
敗戦後、横山新兵衛らと京都に残って井伊直正を通じて徳川家康へ謝罪し、長宗我部家の存続に尽力したが、帰国していた長宗我部盛親が讒言により兄を殺すという失態を犯し、長宗我部家は改易。
井伊家の家臣・鈴木平兵衛と共に土佐に向かうと浦戸城を接収。浦戸城の明け渡しに抵抗した一領具足の鎮圧に尽力している。
 
その後は細川忠興に仕官し、二十挺組・小兵衛組として知行1500石となった。(加藤家に仕えたとも?)
晩年には長宗我部元親についての書籍「長元記」と言う「長」宗我部「元」親「記」を著作した。(疑問視する説もある)

没年は1659年とされ、戦国武将としては94歳の長寿で知られる。

※不確定要素が多い為、皆様からの情報もお待ち致しております。

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