松井康之は丹波水軍の優れた大将だった~細川家の重臣


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松井康之(まつい-やすゆき)は、京都郊外の松井城主である松井正之(松井山城守正之)の次男として、1550年11月1日に生まれました。
母は荒川澄宣(荒川治部大輔澄宣)の娘です。

松井氏は松井宗次が足利尊氏に仕えてから、代々・足利将軍の重臣でした。

父が1563年9月26日に死没すると、兄・松井勝之(まつい-かつゆき)が跡を継ぎました。
しかし、1565年5月19日、三好義継、松永久秀らの永禄の変で、主君・足利義輝と、兄・松井勝之、松井新三郎らが暗殺・討死します。
そのため、松井康之が家督を継ぎました。

松井康之の正室は沼田光長の娘ですが、沼田光長(ぬまたみつなが)は、1565年、足利義輝とともに討死しています。
なお、松井康之は千利休古田織部とも親交があり、優れた茶人であったとも言われています。

足利義輝が亡くなったあとは、松井康之は細川藤孝細川幽斎)と行動を共にし、のち織田信長に臣従しました。
ただし、実質的には細川家の家臣のような状態だったようです。

1581年に羽柴秀吉が鳥取城攻めを行ないます。
この時、松井康之は丹後水軍衆を率いて、豊臣秀吉の付城に兵糧を入れると共に、鳥取城に補給しようとする毛利水軍65隻を撃退し、毛利家の鹿足元忠を討ち取るなどの功績を挙げました。
そして、伯耆・泊城を攻めるなど活躍し、織田信長から賞賛されたとされます。

その後、細川藤孝は丹後・宮津城主となると、松井康之は13000石となります。

1582年、本能寺の変で織田信長が横死したあと、明智光秀の誘いに乗らず細川藤孝が隠居して細川幽斎と称すると、跡を継いだ細川忠興に仕えました。
この時、豊臣秀吉は丹後水軍が維持されるよう、加増分の3分の一は舞つけに与えるよう指示しており、松井康之は20000石にて丹後・松倉城(久美浜城)に入りました。
そして、多くの家臣を従えて水軍を率いると富山の役、1590年には小田原攻め、朝鮮攻めの文禄・慶長の役にも参戦しています。
ただし、長男・松井興之が朝鮮で討死しました。

肥前名護屋城からの展望

これらの功に報いる為、豊臣秀吉は、石見半国18万石の大名に取り立てると打診しますが、松井康之は辞退したと「寛政重修諸家譜」に記載されています。

1595年、豊臣秀次事件の際、豊臣秀次と婚姻関係にあった、浅野幸長浅野長政、そして、松井家が使える細川忠興も謀反・連座の疑いを掛けられます。
細川忠興はすぐに娘を離縁させましたが、特に豊臣秀次から借金もあったため、松井康之が奔走。
徳川家康から金子を用立てもらい豊臣家に借金を返済しただけでなく、豊臣秀吉への取り成しも受け、細川忠興は難を逃れることができました。

これに感謝した細川忠興は、娘・古保(こほ、11歳)を、松井康之の次男・松井新太郎(松井興長)の妻とし恩に報いています。

1600年、関ヶ原の戦いで、細川忠興は徳川家康に味方します。
この時、松井康之は、細川家の飛び地である豊後・杵築城にいたため、細川忠興より帰国するように命を受けています。
しかし、既に戻れる状況でもなかったため、杵築城代の有吉立行と行動を共にしています。

そして、大友家再興を夢見て攻撃してきた大友吉統を杵築城にて撃退しました。

杵築城

その後、援軍として駆けつけた黒田如水(黒田官兵衛)と合流し、大分の石垣原の戦いで大友吉統を打ち破っています。
なお、嫡子(次男)の松井興長(まつい-おきなが)は、細川忠興に従って小山会議、そして関ヶ原へと赴いています。
ただし、岐阜城攻めの際に負傷したため、関ヶ原での本戦には参戦しませんでした。

この功績により、細川忠興が小倉城主・39万石となると、松井家には杵築城2万5994石と言う大名格の領地を与えられ、更に速見郡の御領所1万7000石を預けられました。

杵築城の城下町

松井康之は1605年から病気がちとなったため、細川忠興は、頻繁に見舞状を送り、また万病薬なる気力回復薬を飲むように記述しています。
1611年、松井康之は隠居し、家督を松井興長に譲りました。
そして、1612年1月22日に松井康之は豊前・小倉にて死去しています。享年63
死期を悟った最後に、徳川家康より3回薬を賜った礼となる遺書を、本多正純に送っています。

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その後、松井家は、熊本藩に移った細川家の筆頭家老(別格家老家)として28000石となり、一国一城制の例外にて八代城主を務め明治維新まで続きました。
ただし、跡を継いだ松井興長には男子が無かったので、細川忠興の6男・細川寄之を養子に迎え、家督を譲っています。

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