明智玉子(細川ガラシャ)とキリスト教の関係考察

細川ガラシャ姫(ほそかわ-ガラシャ)。

このお名前を聞くと「悲劇の姫」とイメージされる方も多いかと思います。

果たして彼女の人生は「悲劇」だったのでしょうか?

今回、わたくしが書かせて頂く題材は「明智玉子とキリスト教」について。

玉子姫とキリスト教の関係について、個人の見解のもとに綴らせて頂きます。


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明智玉子(あけち-たまこ)。
1563年、越前国にて、明智光秀と煕子姫の三女(諸説あり)として誕生致します。

「玉子」その名前の由来は「玉のように愛らしい子」と云われております。

側室を置かず妻煕子のみを愛し続けた光秀公。
浪人時代の貧しい生活の中でも光秀公を支え続けた煕子姫。

仲睦まじい両親の愛情を一身に受け、活発で天真爛漫に育ったと表現されることが多いようです。

玉子姫にとって、この二人の姿こそあるべき夫婦の姿であり、夫婦とは、家族とは、支え合うことが当然だと、幼心に感じていたのかもしれません。

 

その後、父の主君、織田信長公のすすめにより、以前より交流のあった細川藤孝の嫡男、細川忠興の元へ天正6年、1578年に嫁ぎます。

同じ歳の二人は共に美しく、人形のように愛らしくお似合いだと、周囲にも大層祝福された婚姻であったと伝えられております。

細川忠興 細川ガラシャ 婚姻の地 勝竜寺城

子宝にも恵まれ幸せな新婚生活から4年後、本能寺の変が起こります。

父の謀反の真意は分からなかったにしろ、玉子姫は細川家は明智家のお味方をしてくれると信じたかったでしょう。

ほどなくして玉子姫は、父や母の死、明智家の滅亡を知ります。
そうして「逆臣の娘」となった玉子姫は、丹後の味土野へ幽閉されてしまいます。

忠興公が危険を冒してまで自分を守ってくれようとしている…感謝したとは思いますが…

大切な家族を失い、その家族は夫に見限られ、山奥に一人ただ生かされる自分…この時の玉子姫の虚無感は計り知れないものがあったかと思います。

そしてこの味土野の地にて、自分自身と向き合うことになります。

玉子姫と共に味土野へ向かった人物の中に、公家の出である清原いとという女性がいたと云われております。

いとの父は清原枝賢という儒家で、キリシタンでもある人物。

いとが洗礼を受け清原マリアとなるのは、細川家が大坂玉造に移ってからですが、いとは父を通し幼い頃からキリスト教の教理に触れていたでしょうし、慈善活動のこと等も玉子姫に話していたかもしれません。

いとは玉子姫を慕い、彼女の侍女となります。

いとの自分へ投げかける言葉は深く温かく、何も無い山の中でも微笑む姿、そして何より自分を真摯に想ってくれる心…玉子姫はいとの姿を通し、キリスト教へ惹かれていったのかもしれません。

 

その後、秀吉公の許しを得て、大坂玉造にて忠興公達と暮らせるようにはなりましが、織田方が玉子の命を狙うのではないか、好色な秀吉に玉子の美しさが伝わるのではないかと、忠興公が玉子姫を想うあまり、屋敷の奥から外出すら出来ない生活を送ることになります。

ただ、味土野での幽閉生活中に、忠興公は側室を持っていたと伝えられております。

家族は滅び、自身も戻れる日は来ないかもしれないと、忠興公や子供達のことを想い、一人味土野の山奥で生きた日々…そんな時に夫は…

武家として側室は当たり前。

ただ、父と夫を重ね…忠興公に幻滅したかもしれません。

自身は父と母のような夫婦にはなれないのだなと、虚しかったかと思います。

 

わたくしは、味土野での2年間の日々が、彼女の人生の中でもっとも重要だったのではないかと思っております。

 

玉子姫ほど、神仏を信用していない人間はいないと思います。

なぜならあれほど祈ったのに願ったのに、父は、明智家は、救われなかった。そして自分も…この世に神も仏もないと。

 

ならば、なぜキリスト教には惹かれたのでしょう?

 

戦国の世の習わし、戦国の世に生きる女の宿命。

玉子姫にとってこの世は疑問と矛盾だらけで、その答えを指し示してくれたのが、キリスト教だったのではないかと思います。

秀吉公がバテレン追放令を出しても、細川家に危険が及ぶ可能性があっても、忠興公に反対され侍女の耳や鼻を削がれても、教えを貫いた。

いえ、貫けたのは、キリスト教こそ自身の生きる道だと、心から信じることが出来たからではないでしょうか?

 

貧しいながらも愛されて育ち、出会う者がみな、自分を美しい言い、格別に扱う。

自分には価値がある。特別。だからこそどんなことへも恐れなく、率直に意見が言えた。

それも美しいということで、聡明だと称された。

ただ、美しさには寿命があること、その虚しさも充分に理解していた。

そして本能寺の変により崩れ去り、丸裸の一人の人間となり…

丸裸の身でキリスト教に触れ、自身の愚かさを教えられた。

それと同時に父の真心は崇高であり、ただの謀反人ではない。

キリスト教の教えがそう言ってくれた、そんな気がしたのではないでしょうか。

 

一人の人間として、真の幸せを追い求めた。それは不幸なことなのでしょうか?


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「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

~ 花は散るべき時を知っている だからこそ花として美しい 花も人も散り時を心得てこそ美しい わたくしもそうでありたい ~

明智玉子。

最期まで美しく気高くありたい。それが明智の生きる道だと。

それこそが彼女の幸せだったのではないでしょうか?

 

真の幸せは誰かや外から与えられるものではない。自身の中に見つけるものだと、彼女の生き方から教えられた気がします。

(寄稿)在原 叶

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