足利氏姫~古河御所にて名門足利家の意地貫き通した関東の女城主

戦国時代には関東にも「足利氏姫」と言う女城主がいたと言うのは、あまり知られていないだろう。
1574年に生まれた、第5代古河公方・足利義氏の娘である。母は北条氏康の娘(浄光院)。

足利氏姫の読み方は色々あり、あしかが-うじひめ、あしかがのうじひめ、あしかがうじのひめとも言い、氏姫、氏女と記載されている場合もある。

父である古河公方・足利義氏には、この氏姫と言う娘の弟として、嫡男・梅千代王丸がいたが早世していたようだ。
そのように跡取りがいない状況で、1583年1月21日に足利義氏が死去(享年43)したため、古河公方の後継者問題が発生した。

この頃の古河公方は、小田原城主・北条氏直に臣従していた事もあり、正室・浄光院殿(北条氏康の娘)が産んでいたこの「足利氏姫」を古河城主として擁立したと言う事になる。

こうして、おんな城主となった足利氏姫であったが、当時はまだ10歳前後と考えられ、実質的に政務は御連判衆と呼ばれた家臣が執っていたのだろう。
とは言え、古河公方は実質的にも名ばかりで、北条家の庇護のもと辛うじて存続していたに過ぎない。


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1590年、豊臣秀吉小田原攻めとなると、小田原・北条家が滅亡する。
この時、豊臣家より古河城から退去するように命じられた足利氏姫であったが、古河御所(鴻巣御所、古河公方館)周辺の300石だけは認められたようで、以後は古河御所にて暮らした。

関東における名門・足利氏の系統が断絶するのを忍びないと考えた豊臣秀吉は、翌年の1591年に、長年敵対していた小弓公方・足利義明の孫である足利国朝と結婚するように足利氏姫(足利氏女)に命じる。

もちろん断る事もできず、結婚した足利氏姫(足利氏女)であったが、足利国朝もお互いの家臣も自分こそが正当な公方家だと譲らない。

そのため、足利国朝は豊臣家から与えられた下野・喜連川400貫(3500石)の地に住み、足利氏姫(足利氏女)は引き続き自領・古河御所に住んだと言うので、これまた奇妙な夫婦となった。

しかし、1593年、朝鮮出兵の際に、九州・名護屋城へ向かう途中の安芸にて、足利国朝は病死するに至る。

そのため、足利氏姫(足利氏女)は足利国朝の弟である喜連川頼氏と再婚することになった。

その後、足利氏姫(足利氏女)は喜連川頼氏とは和解したのか、1599年に嫡男・喜連川義親を産んでいる。
しかし、喜連川に移住するのは引き続き拒み、子の喜連川義親も母・足利氏姫と共に古河御所にて養育された。

1600年、関ヶ原の戦いの際に、喜連川頼氏は兵を出さなかったが、徳川家康に戦勝祝いの使者を送った事が評価されて加増となり、約5000石となっている。
ただし、名門・足利氏として10万石並みの国主格大名として優遇されている。
これにより1万石未満ながらも喜連川藩が成立したが、嫡男・喜連川義親は引き続き古河御所に残り、足利氏姫(足利氏女)は1620年5月6日に46歳で亡くなった。
墓所は徳源院。

母の死後も嫡男・喜連川義親は古河御所に留まるも、1627年7月3日、父より先に29歳の若さで死去。

しかし、喜連川義親の正室は松月院(榊原康政の養女で、榊原康政の側室である花房氏の姪)で、継室としては養儼院がおり、その松月院の子である長男・喜連川尊信がいる。

1630年6月13日に足利氏姫の夫・喜連川頼氏が死去すると、徳川幕府の命にて喜連川尊信が喜連川藩の家督を継いで第2代藩主となり、以後、古河御所は使われなくなった。
ただし、家臣同士の争いは続いていたようで、1647年には喜連川騒動と言う藩内争いが生じている。

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