影武者~武田信玄の影武者は何人いたのか?


スポンサーリンク
スポンサーリンク

そもそも、武田信玄の影武者が本当にいたのか?
色々と議論はありますが、武田信玄を調べますと、調べるほど「非常に慎重」な武将であることがわかります。
そのため、個人的には、影武者は少なからず「いた」と私は考えております。

武田信玄の影武者を務めた人物として有名なのは、武田信玄の弟・武田信廉(武田逍遙軒信綱、武田信綱)です。
兄弟ですので、顔は似ていて当たり前ですよね。
影武者には最適でして、他国の使者が来た時などにも、武田信玄と偽って対応して可能性が有ります。


上杉謙信との川中島の戦いで討死した、武田信玄の次弟・武田信繁も影武者を演じる事があったとされており、戦場では複数人もの影武者が武田信玄になっていたと言われます。

実際に、武田信玄が駒場で亡くなった西上作戦の際には、武田信玄が健在であることをアピールするため、武田信廉が影武者となって、武田勢は甲斐へ戻ったとされています。

この時の野田城攻めでは、徳川勢が鉄砲で武田信玄を狙撃したと言う伝承もあります。
この武将も影武者であった可能性も無きにしもあらずです。

このような状況を考えますと、行軍中や戦場では、少なくとも3名の影武者が武田信玄になっていたのではと推測致します。

そして、武田勝頼が遺言通り武田信玄の死を隠した際には、小田原城主・北条氏政が派遣した、板部岡江雪斎の応対を、武田信廉が信玄の代わりとなって応対し、欺いたとされています。
相模に戻った板部岡江雪斎は「信玄は生きている」と報告したのは有名な話ですね。

なお、武田信玄の死後、長篠の戦いにおいては、それまで影武者も務めたとされる武田信廉は、武田勝頼と不和になって、穴山信君らと早々に戦場離脱しています。


他の戦国大名で影武者がいたのは筒井順昭などですが、徳川家康にも影武者・世良田二郎三郎元信がいたとされています。
山内一豊は、常に6人もの山内一豊がいたと言うので驚きですね。
真田幸隆の真田家にも、代々伝わる影武者戦法があります。

武田信玄についてはこちら
高野山・奥の院にある武田信玄・武田勝頼の供養碑
武田信廉 武田信玄の影武者 画家としての才能も

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でフォローしよう!

スポンサーリンク
スポンサーリンク

関連記事

あなたの思いを下記にどうぞ

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

 スポンサーリンク

気になる戦国女性

  1. 千姫(せんひめ)は、徳川秀忠とお江の長女として、1597年4月11日に伏見城内の徳川屋敷で産まれた。…
  2. 曳馬城主である飯尾連竜(いいお-つらたつ)は、今川義元に仕えていた。 飯尾致実(いいお-のりざね)…
  3.  1547年?に誕生した「おね」は、尾張国の杉原定利の娘(次女)で、母は朝日殿。  生まれてす…
  4. 木曽義昌/木曾義昌(きそ-よしまさ)は、木曾谷領主(木曽福島城主)・木曾義康の嫡男として1540年に…
  5. 吉岡妙林尼(よしおか-みょうりんに)の生い立ちは良くわかっていませんが、父は林左京亮、又は丹生正敏(…

人気の戦国武将

  1. 1535年7月23日、伊作城(本丸を亀丸城と呼ぶ)にて島津義弘が誕生。父は島津貴久で、次男として生ま…
  2. 今治城(いまばりじょう)は、輪郭式平城で、別名は吹揚城、吹上城(ふきあげ)とも言い、日本の歴史公園1…
  3. 勝山館
    武田信広(たけだ-のぶひろ)は、若狭の守護大名・武田信賢の子として、1431年2月1日、若狭小浜・青…
  4.  戦国時代最大とも言われる山岳戦となった三増峠の戦い。  武田信玄が勝利したとも、北条氏照が勝利し…
  5. 北条氏康(ほうじょう-うじやす)は、小田原北条氏の第2代当主・北条氏綱の嫡男として1515年に生まれ…
 スポンサーリンク

戦国グッズ通販

実際に鉄板も使用した本物志向「高級」甲冑型の携帯ストラップ
甲冑型ストラップ

戦国浪漫グッズ
戦国武将グッズ

自作甲冑キット新発売
甲冑自作キット
戦国浪漫「戦国グッズ」通販

メールでお知らせ

新規記事追加をメールで受信

ページ上部へ戻る