武田信玄暗殺未遂事件 義信事件から見る武田義信

武田義信の墓

甲斐の虎と呼ばれ、徳川家康を恐れさせた武田信玄には家督を継ぐはずだった息子(嫡男)がいました。
名前は武田義信(たけだよしのぶ)ですが、信玄に謀反を疑われたことで廃嫡とされてしまい家督継ぐことはありませんでした。

今回はそんな不運な武将、義信に焦点を当てて何故信玄と対立しまったのか義信事件を中心に理由を探ってみたいと思います。

生い立ち

義信は天文7年(1538)に信玄の嫡男として産まれました。
母は三条の方で彼女は当時同盟関係にあった今川氏の仲介によって信玄と結ばれました。


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13歳で元服すると今川義元の娘を正室に迎えました。
この婚姻は同盟関係の強化のためではないかと思います。
また、義信は室町幕府将軍の足利義輝から偏諱を受けています。
将軍家が代々名乗っている「義」の字を貰い天文22年(1553)から「義信」と名乗ることにしました。
通字を貰い受けることは武田家の中で義信だけであり、義信が嫡男としての資格を有していることがわかります。

翌年の信濃国佐久郡にいる知久氏を攻める戦では義信は初陣にも関わらず、知久氏の反乱を鎮圧した後に小諸城を攻略し、信玄の信濃国平定に大きく貢献しました。
そして、永禄4年(1561)の第四次川中島の合戦でも上杉軍の本陣を急襲し、上杉謙信の家臣を討ち取る武功を挙げました。

信玄の跡を継ぐに申し分ない活躍を見せ、嫡男として順風満帆な日々を送っていた中、永禄8年(1565)に信玄から謀反の疑いを掛けられてしまいます。
その後は東光寺に幽閉され2年後の永禄10年(1567)に30歳の若さで自害しました。

義信が謀反容疑を起こした義信事件とは?

義信の教育係だった飯富虎昌(おぶとらまさ)と虎昌の側近は信玄を暗殺する計画を立てます。
義信はその計画を虎昌を通じて知ったとされています。
しかし、虎昌の弟である飯富三郎兵衛(後の山県昌景)によって計画は信玄に発覚しまいます。
信玄は義信らを謀反人と見なし、首謀者の虎昌は処刑、義信は廃嫡と同時に東光寺に幽閉されることになってしまうのでした。

義信と信玄が対立した理由

義信が信玄に暗殺を企てようとした理由は義信の親今川派と信玄の反今川派での派閥争いにありました。

義信事件の頃の今川氏は永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元を織田信長によって倒されてしまったので、今川氏真が当主でした。
しかし、義元ほどの才能がない氏真は徐々に国力を衰退させていきました。今川氏の状態に見切りを付けた信玄は今川氏を攻めようと決めますが、正室に義元の娘を持つ義信は猛反発しました。
これがもとで親子の仲を崩壊させ、暗殺計画に至ったとされています。


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義信が自害した約1年後には今川氏の所領である駿河国を侵攻し永禄13年(1570年)には駿河国を支配下に置いています(駿河侵攻)。

(寄稿)拾丸

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