満願寺と阿蘇流北条氏~元寇や鎌倉滅亡にも関与した阿蘇の北条一族

満願寺

熊本県南小国町にある満願寺(まんがんじ)の小国郷は鎌倉時代、執権・北条家の所領でした。
そして、1274年、文永の役の際に鎮西奉行となっていた北条時定が、国土安泰を祈願して建立したと伝わります。

満願寺の庭園は、庭内の心字の池の中心部に「都忘れずのつつじ」が植えられているなど、室町時代の趣があり、九州最古の庭園と言われています。

この満願寺には執権・北条時宗の姿として代表される肖像画「絹本著色伝北条時定像」があり、その価値から国の重要文化財に指定されています。
ただし、実際には北条時定の嫡子・北条定宗の像とも考えられています。

この熊本・満願寺と北条氏との関係を調べてみました。


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まず、肖像画の本当の主とも推定されている北条時定からです。

北条時定

北条時定(ほうじょう-ときさだ)は、北条得宗家・北条時氏の3男として生まれました。
母は松下禅尼(まつしたぜんに)と呼ばれる、甘縄が本拠の安達氏と言う源頼朝の流人時代から従った有力御家人、安達景盛の娘です。
この松下禅尼は、のちに第8代執権・北条時宗を養育したことでも知られます。

そして、北条時定の兄である北条経時は、鎌倉幕府の第4代執権に、次兄の北条時頼は第5代執権となっています。
北条時定は、執権にこそなれませんでしたが、準じる家柄であることから鎌倉では将軍の側近を務めました。
また、北条時政以来、代々継承されたきた肥前・阿蘇社の所領を継いで、阿蘇時定と称します。
そして兄・北条時頼が死去すると、弘長4年(1264年)の百カ日仏事に際して、肥前・満願寺を開創したのです。

元寇となると、1281年に肥前守護となり、8月頃に鎮西として下向したとされます。
そして、北条為時(阿蘇為時)とも一時名乗りますが、1287年1月29日には鎮西奉行となり、蒙古対策を担当しました。

北条時定には、北条時家、北条随時と言う子がいたようですが、まだ幼少だった模様で、1289年、養子である北条定宗に家督と肥前守護職を譲ります。
そして隠居すると、1290年10月15日に博多にて死去しました。
このように、北条時定(阿蘇時定)は、鎮西に下向した阿蘇流北条氏(あそりゅうほうじょうし)の祖とされ、九州に土着しました。

北条定宗

北条定宗(ほうじょう-さだむね)は、前述の通り養子と言う事で、出自は北条時宗の甥で、5代執権・北条時頼の子である桜田時厳の子となります。

阿蘇定宗として、阿蘇流北条氏の家督を継ぎましたが、約5年後の永仁3年(1295年)8月19日に現地にて死去。享年28。
家督は子の北条随時が継ぎました。

北条随時

北条随時(ほうじょう-ゆきとき)は阿蘇流2代・北条定宗の子で、1291年に生まれたとされます。
そのため、家督を継いだ時は、5歳くらいと言う事です。
通称は阿曽遠江守で、鎌倉で二番引付頭人を務めたのち、従五位下となって、1317年、鎮西探題に就任しました。

妙恵(みょうえ)と言う、1260年に出家し、宋にも修行した僧がいて福岡市西区の海晏山・興徳寺の開祖となっています。

北条随時は、1321年6月23日(諸説あり)、鎮西にて死去。享年31歳。

北条治時

北条治時(ほうじょう-はるとき)は、1318年に北条随時の子として生まれました。
阿蘇家の4代当主・阿蘇治時(あそ-はるとき)と称しますが、鎌倉幕府第14代執権・北条高時(ほうじょう-たかとき)の猶子になっています。

鎌倉幕府も末期で、1331年9月、元弘の乱では、赤坂城など京都付近にて後醍醐天皇の勢力と戦っています。

1332年9月には楠木正成と、1333年2月には、赤坂城攻めにて北条治時が大将として出陣しています。
軍奉行・御内人長崎高貞(長崎高資の弟)の補佐を受け、なんとか水の手を絶って陥落させました。
しかし、楠木正成の千早城は落とせず、5月になって京都の六波羅探題が陥落し、鎌倉幕府軍は自壊しました。

北条治時と長崎高貞は大仏貞宗・大仏高直の兄弟らと、興福寺にて抵抗を続けます。
しかし、1333年5月22日、新田義貞による鎌倉攻めが行われ、執権・北条高時を始め北条一族は皆自害し、鎌倉幕府は滅亡たとり知らせを聞いて、6月5日に般若寺で出家し建武政権に降降伏しました。
そして、建武元年(1334年)7月9日、京都・阿弥陀峯にて、長崎高貞・大仏貞宗・大仏高直らとともに処刑されています。
北条治時(阿曾治時)は享年17とまだ若い武将でした。


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北条時定が建立した満願寺には、北条時定・北条定宗・北条随時のものと伝わる五輪塔と、北条時定・北条定宗の肖像画があります。

北条三氏の墓

北条三氏の墓

墓どおしが結構離れていまして、写真に納まらないのですが、中央が北条時定、左が北条定宗、右が北条随時のお墓になります。

北条三氏の墓

結構事前に下調べして訪問させて頂いたのですが、北条三氏の墓がある場所は非常に分かりにくかったです。

最初は間違えて、長い階段をせっせと登りまして「満山神社」に行ってしまいました。

満山神社

満山神社からの下りでは、小雨が降る中、コケに覆われた階段により、登山靴でも滑って、しりもちをついています。
気を取り直して、そらに奥の方へ車が通れない、畑の中の道を進みましたら、今度は「金比羅スギ」に出てしまいました。
そして、やはり地蔵堂のところだろうと、改めて推理して向かった次第です。
北条三氏の墓への目印としては、下記の赤い屋根の地蔵堂の左側、山すそとなります。
下記写真に入っている地蔵堂の左わきにある墓石は違いまして、小さな小川を渡った左側にありました。

北条三氏の墓

満願寺の山門のところを境内に入らず、左に道を入って、公民館があるカドを左折して山の方に向かいます。
すると、左側に赤い屋根の地蔵堂が見えてきます。
満願寺の山門から徒歩3分といったところです。

さて、その満願寺温泉へのアクセスですが結構不便です。
JR豊肥本線の阿蘇駅から九州産交バス別府行きで黒川温泉下車、その後タクシー・車で約10分。
クルマの場合には近くに無料駐車場がありますので、当方のオリジナル九州地図にて示しておきました。

すぐ脇に200円で入浴できる公衆浴場の温泉「満願寺温泉館」もありますので、セットでどうぞ。

満願寺温泉館の入浴記はこちら

満願寺温泉~日本一恥ずかしい混浴露天風呂も
大楠公「楠木正成」の知謀を探る~日本史上に残る知将の戦い
北条時宗とは~元寇を退けた武断派の執権~
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