楠木正儀~不肖の子と呼ばれた三男は心優しき名将~

楠木正儀

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楠木正儀(くすのき-まさのり)は楠木正成の三男として生まれた、南北朝時代の武将です。
一説には彼の生母は南江久子、同母兄には正行と正時がいました。
正儀は幼名を虎夜刀丸と言った事を除くと、少年時代のことは詳しく伝わってはいません。

彼が歴史上に姿を現すのは南朝の正平3年(1348年)、四条畷で兄二人を失って家督を継いだ時、南朝軍の将として参戦した時です。
正儀は生年がはっきりしてはいませんが、元徳2年(1330年)とする説を採用すれば18歳の若さであった事になります。
正儀は本拠地である河内(大阪府)を主として高師泰を相手に戦い、翌年にも北朝軍と小規模ながらも戦っています。

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南朝の正平5年(北朝では観応)に観応の擾乱が起きると、正儀は南朝の失地恢復と南北朝合一を目論んで行動を起こし、翌年には正平一統が成立します。
しかし、正平7年に北朝との和議は破談、正儀は北畠顕能(北畠親房の子)や千種顕経(千種忠顕の子)と共に京都を奪い返しますが、足利尊氏の子・義詮の反撃で退却を余儀なくされました。

その後も正儀は京都奪回を目指して戦いを繰り返し、前回の戦役を合わせると正平9年(1354年)に足利直冬、正平16年(1361年)には細川清氏と組んで京を制圧しますが、いずれも室町幕府軍の反撃によって頓挫します。
一方で正儀は戦以外にも和議による南北朝合一を考えており、北朝の佐々木道誉らを頼るも肝心の将軍・義詮には拒絶され、南朝内部では長慶天皇に代表される合一反対派が台頭し、その計画は滞ったのでした。

正平24年(1369年)、南朝で孤立していたこともあった正儀は親交があった幕府の管領・細川頼之を通して北朝へ降伏しました。
それに反対する同族の楠木氏を始めとした南朝軍の攻撃を受けるも、3代将軍・足利義満と頼之の援軍で退けます。
北朝での正儀は左衛門督の官位を安堵され、河内と和泉の守護職も継続したのでした。

しかし、南朝の天授5年(1378年)に河内守護職を義満から召し上げられたのを皮切りに、正儀の権勢も揺らぎます。
その背景には頼之の権力の失墜が影響しており、彼が失脚すると正儀は北朝でも孤立、南朝の弘和2年(1382年)に正儀は南朝へ帰参したのです。
帰参した際に参議の職を賜り、それ以降の正儀は、南朝で戦い続けました。

没年は南朝の元中6年(1389年)に逝去、もしくは元中8年(1391年)8月22日に赤坂で戦死したとも言われています。
南北朝の合一を夢見て戦い、時には謀略を巡らせた正儀は、南朝寄りの文学書である『太平記』では父や兄に劣る不肖の者として描かれ、南朝を正統としている後世でも評価は高くありませんでした。

しかし、“交渉を諦めない”“和議を結ぶべき時には敵にも手を差し伸べる”と言った正儀の行動と価値観は、湯浅氏を生け捕って配下に加え、尊氏を許して和睦するべきだと主張した父・正成譲りと言うべき、柔軟で合理的なものです。
少数の部隊で師泰や義詮など優秀な将に率いられた大軍を相手に善戦するなど、劣勢でも粘り強く戦う楠木氏お得意のゲリラ戦も展開しています。

そうした戦いを繰り広げる一方で、正儀は敵の捕虜が負傷し、或いは満足に衣裳を持っていない場合、衣類や薬を施してから釈放する優しさも持ち合わせており、慈悲と無欲を賞賛された北朝の尊氏にも劣らず人望を持った将でもありました。


また、正儀の合理的な考えと敵への憎しみを持たない心は子孫(非血縁説もあり)である楠木正虎にも引き継がれ、彼は仇敵であるはずの足利将軍家に仕えて才覚を現し、北朝の天皇にも謁見して正成の赦免を訴えています。
正成不肖の子とされた楠木正儀でしたが、彼の一族は戦国まで生き延び、祖先の名誉を回復すると言う、多大な功績を残したのでした。

(寄稿)太田

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