簗田広正 織田信長のもとで活躍した織田家の武将

梁田正綱

簗田広正(やなだ-ひろまさ)は、戦国時代の武将で、父は沓掛城主・簗田政綱とされます。
父は織田信長に仕えており、1560年、桶狭間の戦いでは、今川義元の本陣位置を偵察し、織田信長に報告した武将とされ、3000貫の領地を得ました。
その子が簗田広正と言う事になります。

簗田広正は、1570年年の浅井長政攻めでは、近江・小谷城からの撤退時に殿軍(しんがり)を務めています。
そのため、この頃までに父・梁田正綱は死去したか、隠居したものと推定されます。


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簗田広正は、1575年、羽柴秀吉・明智光秀塙直政らと、朝廷から叙位任官を授かり、右近大夫となって、九州の名族である別喜(戸次)氏を名乗ることを許されました。
かなり評価されている武将と言う事が伺えますが、別喜右近(戸次右近)と称しています。

1576年、加賀・大聖寺城の城主となって、加賀一向一揆に対応しました。
しかし、兵力不足にて討伐が失敗したため、尾張に戻され、1578年からは、織田信忠を補佐して、別所長治の反乱などに当たりました。

なお、1582年、子の戸次長教が、武田勝頼の甲斐攻めの際に、信濃・鳥居峠の戦いにて討死しています。
孫の簗田教貞は織田信雄に仕えたともありますが、不明な点が多いです。


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通常、簗田氏(やなだし)と言うと、関東の関宿城や、水海城の簗田持助などが有名ですが、尾張・簗田氏との関連性は不明です。

簗田政綱 桶狭間の戦いで信長から最も評価された武将
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