奥村永福 (奥村家福) 前田家を一度出奔するも重臣として支える

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奥村永福

奥村永福(おくむら-ながとみ)は、戦国時代の武将で、1541年に尾張で生まれました。
奥村氏は、荒子城主の前田氏の譜代家臣で、成長した奥村永福(奥村家福)は、前田利春(前田利昌)や、その嫡男・前田利久に仕えています。
奥村永福の妻は、加藤氏の娘・安(松樹院)です。

1569年、織田信長の命にて、前田利久が家督を取り上げられ、弟・前田利家が継ぎます。
この時、奥村永福は荒子城の明け渡しに反対して籠城しました。
旧主君の前田利久が説得すると、奥村永福は前田家の家臣をやめて浪人しています。


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その後、1573年、前田家に復帰すると、前田利家に従い、柴田勝家の軍団として越前・朝倉攻めなどで活躍しました。
前田利家が加賀・金沢城に入ると、奥村永福(奥村助右衛門)は能登・末森城を任されています。

本能寺の変を経て、前田利家が羽柴秀吉に属すると、1584年、能登・末森城は、佐々成政神保氏張、佐々平左衛門ら15000の攻撃を受けました。
この時、土肥親真の弟・土肥次茂が討死するなど苦戦を強いられましたが、奥村永福や千秋範昌ら1500は、二の丸が落ちても降伏しませんでした。
そこに、金沢城から駆けつけた前田利家・前田利長前田秀継前田慶次ら2500が、佐々成政の背後を突き、防衛に成功しています。

末森城の戦い

家老の村井長頼らと名実ともに奥村永福は加賀・前田家の重臣であり、豊臣秀吉からは豊臣姓も下賜されました。
そして、前田利家が死去すると隠居して出家し、1万650石の所領を嫡子・奥村栄明に譲っています。
しかし、前田家を継いだ前田利長の希望で、政務に復帰し、その跡取りの前田利常を支え、筆頭年寄となりましたが、高齢を理由に1611年、再び隠居しています。

豊臣秀頼との対決になる大坂の陣では、加賀藩主・前田利常の信任が厚い、3男・奥村栄頼が長連龍と共に真田丸を攻撃したようです。
しかし、真田幸村に撃退されただけでなく、仲が悪い横山長知が功を立てたので、面目を失い、自ら出奔したともあります。

嫡男・奥村栄明も、1620年に先立っており、このような心配事があるなか、1624年、奥村永福(奥村家福)は死去しました。享年83。


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ただし、奥村家は幕末・明治維新まで前田家の重臣として続きました。

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