宮部継潤の解説 豊臣秀吉に仕えて出世した武勇ある浅井家の家臣

宮部継潤

宮部継潤(みやべ-けいじゅん)は、1528年に生まれたとされる、小谷城主・浅井長政の家臣です。
幼名は孫八。

もともとは、近江国浅井郡宮部村の豪族の出で、父は土肥氏の後裔である土肥真舜とされますが、9歳のときに比叡山に入ると山法師となっていたようです。(諸説あり)
のち、宮部村に戻って湯次神社・宮部善祥坊清潤の養子となり、善祥房、中務卿法印を称しますが、宮部神社を城塞化して宮部城として自立すると、浅井家の家臣に加わりました。


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武勇に優れており、浅井家で活躍しますが、横山城に入った羽柴秀吉から1572年10月に調略されて織田家に寝返りました。
小谷城にて人質となっていた妻には、暗号文書を送って見事脱出させたという逸話も残っています。
浅井井規に宮部城を攻められますが、秀吉の援軍もあってしのぐと、宮部城は小谷城攻めの重要拠点として機能し、1573年8月の浅井家滅亡の際も、武功を上げました。

なお、宮部継潤の安全保障を受けるため、まだ4歳であった治兵衛(宮部吉継/豊臣秀次)を宮部家の養子に迎えていましたが、織田信長の命にて、宮部継潤は蜂須賀正勝の3200石に次ぐ、3100石にて秀吉の与力となったこともあり、長浜城ができるころまでには、豊臣秀次を返していたようです。

その後、羽柴秀吉のもと、宮部継潤は主に羽柴秀長(豊臣秀長)に従って活躍し、毛利攻めなどにて活躍していてます。
特に、1580年頃には、山名家が滅んだあと2万石となり、但馬・豊岡城に入っています。

そして、吉川経家との鳥取城の戦いでは、毛利の援軍、吉川元春の部隊に対抗すると言う困難な立場も無事にやり遂げています。
その功績もあり、1582年、山名豊国に代わって宮部継潤が鳥取城主に抜擢され、荒木重堅(木下重堅)、垣屋光成・垣屋豊続、山中鹿之助(山中幸盛)と行動を共にしてきた亀井茲矩などが配下に加わっています。

本能寺の変のあとは、5万石に加増され、1585年、佐々成政への攻撃や、九州平定攻めにも参じました。
南条元続、亀井茲矩、荒木重堅、垣屋光成らを従えて参戦しており、特に、日向・高城にて島津家久を撃退しています(根白坂の戦い)。
この時、島津家の来襲を予測して、根白坂砦の前に堀と柵を構築しており、大軍を防いだことから、秀吉より「日本無双」の感状を与えています。

その後、鳥取城の城郭を強化し城下町を整備すると因幡・但馬で5万971石とあり、軍役は5350人との記録があります(宮部文書)。

鳥取城からの展望

天正18年(1590年)、小田原攻めにも参戦すると、同年に嫡子・宮部長房(宮部長煕)に家督を譲りましたが、隠居はしていません。

宮部長房(みやべ-ながふさ)と宮部継潤は、1592年からの朝鮮攻めにて肥前・名護屋城に布陣しています。
宮部長房は朝鮮に渡りましたが、宮部継潤には渡航の許可は出なかったと言いますので、それだけ、豊臣秀吉からも信頼もされてとも考えられます。
文禄の役で失敗した大友義統が改易されると、豊後は太閤蔵入地となり、検地を山口宗弘とともに担当した他、因幡銀山を開くと、算術も得意な宮部継潤は豊臣家より銀山経営を任されています。

1594年には、伏見城(指月伏見城)の普請にも参加しますが、豊臣秀吉の御伽衆にも名を連ね、宮部継潤は8万1000石とあります。

前田利家のあとを追うかのように、慶長4年(1599年)閏3月25日死去。
享年は64、享年71など諸説あります。


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1600年、関ヶ原の戦いとなると、子の宮部長房は最初は徳川家康に与したが、のちに石田三成の西軍に転じて伏見城の戦い大津城の戦いに参加したため、改易されて所領没収となり、石川貞清らとともに南部利直に預けられました。

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