織田彦五郎(織田信友)とは 家臣らに実権を握られていた尾張守護代

織田彦五郎(織田信友)

織田信友(おだ-のぶとも)は、織田彦五郎とも言い、尾張下四郡の守護代を務めた戦国時代の武将です。
父は、織田達広(または織田因幡守)ともされますが、清洲織田氏(織田大和守家)である織田達勝の嫡養子となったようで、あとを継いで、清洲城主となりました。
織田達勝の娘が、古渡城主である織田信秀の正室となっており、早く亡くなったようで、同盟関係は崩れたようです。
のち、織田信秀が継室にした土田御前織田信長を産んでいます。
なお、織田彦五郎(織田信友)が、織田大和守家を継承した時期などは不明ですが、主家・斯波義統を傀儡として実力者となっていました。
ただし、家中での実権は、家臣の坂井大膳や、河尻重俊(河尻与一郎重俊)に握られていたともあります。


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織田信長の父・織田信秀は、この清洲織田氏(織田大和守家)の家来である清洲三奉行の1人の織田弾正忠家であることから、尾張での覇権をめぐって争いとなりました。

1547年、斎藤道三大垣城(大柿城)を奪取すると、織田信秀は軍勢を出しますが、加納口の戦いの隙に、織田彦五郎(織田信友)は古渡城を攻撃しました。
その後、坂井大膳・坂井甚介・坂井与一と、織田信秀の重臣・平手政秀とが和睦交渉をまとめています。

1552年、織田信秀が末森城にて死去すると、織田信長と弟・織田信行との間で、尾張の支配権を巡って争いとなります。
この時、織田彦五郎(織田信友)は、弟・織田信行に味方しており、以後は織田信長と対立しました。


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1552年頃、鳴海城主である山口教継が、織田信長を裏切って馬側義元に寝返ると、織田信友の家臣である坂井大膳は、坂井甚介・河尻与一・織田三位らと謀り、織田信長勢の松葉城と深田城を急襲します。
そして、松葉城主・織田伊賀守と、深田城主・織田信次を人質にしました。
そのため、織田信長は、守山城の織田信光中条家忠、若き柴田勝家前田利家らと反撃に出て、萱津の戦い(かやづのたたかい)となり、坂井甚介が討死しています。

そのため、織田信長を暗殺しようと試みますが、斯波義統の家臣・簗田弥次右衛門が織田信長に密告して失敗に終わります。
また、この簗田弥次右衛門が那古屋弥五郎を織田信長側に寝返らせ、切り崩されて行きました。

1554年、織田信友は坂井大膳と図り、警備が手薄になったところを狙い、織田三位、河尻左馬助、川原兵助らを尾張守護の屋敷に向かわせ、尾張守護・斯波義統を暗殺しました。
その結果、織田信長は、斯波義統の敵討ちという大義を得て、清洲城へ向けて進軍し、安食の戦い(あじきのたたかい)になります。
柴田勝家の軍勢の槍は、清洲勢より長く、河尻左馬丞、織田三位らが討死しました。


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1554年、生き残っていた坂井大膳の進言を受けて、守山城の織田信光を調略をしますが、かえって逆に謀略にかかり、織田信光が清洲城に入城すると、織田信友を謀殺して清洲城を奪いました。
坂井大膳は今川義元を頼って逃げています。
これにより清洲織田氏は断絶し、のち、織田信長は清洲城を本拠とします。

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