森忠政 兄5人全員討死するも戦国を生き抜いた末っ子大名

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森忠政の銅像

森忠政とは

森忠政(もり-ただまさ)は、織田信長に仕えていた家臣で美濃・金山城主である森可成(もり-なりよし)の6男として1570年に生まました。
幼名は仙千代(千丸)で、母は林通安の娘・えい(妙向禅尼)となりまなす。

兄に森可隆(もり-よしたか)がいますが、1570年、父と一緒に出陣し、姉川の戦いで勝利したあと、手筒山城を攻めます。
この時、一番乗りを果たしましたが、1570年4月25日討死しました。(享年19)
父・森可成は9月に琵琶湖西岸にある宇佐山城の守備を命じられていましたが、浅井長政朝倉義景30000の出撃を受けます。
これに対して、織田信治、青地茂綱らと1000で坂本の街にて迎え撃ち、宇佐山城の戦いとなりますが、比叡山の僧兵も敵に加わったため、織田信治、青地茂綱らと森可成は討死しました。(享年48)

十文字槍の使い手で「攻めの三左」と呼ばれた父・森可成は、生まれた森忠政の顔を見ること無く亡くなったようです。
柴田勝家より前から仕えていた森忠政の死を悲しんだ織田信長は、すぐに比叡山焼き討ちを行うことになります。
この時、坂本の街も灰となりますが、森可成の墓があった聖衆来迎寺だけは戦火を免れました。


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森家は2男・森長可(もり-ながよし)が僅か13歳で継ぎ、森家の家臣・各務元正や林為忠が支えます。
そして、森家は織田信忠の与力として各地を転戦しました。

1582年の武田攻めでは、森長可は戦功により、信濃・川中島を加増されて海津城主20万石となります。
そのため、本貫の金山城5万石は、3男・森蘭丸が城主となりました。

なお、4男・森坊丸、5男・森力丸と共に森蘭丸も、織田信長の小姓として仕えていました。
そのため、明智光秀による本能寺の変にて、3名は討死します。
森蘭丸(享年18)、森坊丸(享年17)、森力丸(享年15)と、あまりにも若い死でした。

実は、13歳になった森千丸(森忠政)も、1582年に小姓として織田信長の側に仕えましたが、3月に同僚の梁田河内守と、織田信長の前でケンカとなり「まだ13歳で幼すぎると」返されていたため難を逃れています。
なお、本能寺の変のさいには、母・えいと共に安土城にいたところ、友好があった甲賀忍者・伴惟安に案内されて脱出し、甲賀にて匿われたため、追撃も受けずに済みました。

ただし、安土城に一緒に居た、父の弟・森可政の娘・於鍋を、城内に置き去りにしたため、森可政(もり-よしまさ)は自分の娘を自力で救出するも、森家を出奔すると言う事件も発生しています。

一方、川中島では、情勢が不安定となり、海津城の2男・森長可も、かろうじて金山城に帰還します。

美濃・金山城

しかし、美濃も裏切り者が出るなどしたため、森長可は軍勢を出して、苗木城明知城小里城岩村城などを手中におさめて東美濃を統一しました。

ただし、清洲会議のあと岐阜城主となって美濃を治めた織田信孝への人質として、森千丸(森忠政)が送られていたようです。
しかし、賤ヶ岳の戦いが始まる頃に、森長可は羽柴秀吉に臣従することを決めたようで、現時点で森家の唯一の跡取りである人質の森千丸を救出するために、自ら岐阜城に忍び込んで千丸を救出したと言います。
ちなみに、30mも下の谷底に布団を何枚も敷いて、そこに千丸を落として救出したと言われています。

こうして豊臣家に味方した森長可ですが、活躍は衰えること無く、1584年には小牧・長久手の戦いにも出陣し、岩崎城の戦いで、徳川勢の丹羽氏重や加藤景常を討ち取ります。
ところが、総大将の羽柴秀次が敗走したため、戦場で孤立し、井伊直政の突撃を受け、水野勝成の家臣・水野太郎作清久の鉄砲足軽・杉山孫六により眉間を撃ち抜かれて、鬼武蔵と称された森長可も討死しました。(享年27)

この時点で、森家で跡を継げる男子は森長重のみであり、13歳で家督を継いで金山城7万石の当主となり、各務元正、林通安、林為忠らの後見を受けます。
森忠政は何度も名前を変えていて、この時は森長重ですが、その後、森一重、森忠重、そして森忠政と改名して行きます。
また、本能寺の際に助けてくれた甲賀の伴惟安との伴惟利らを森家に迎えています。

正室は、中川清秀の娘・チボ、継室は名古屋山三郎の妹で、豊臣秀長の養女となった岩、側室は山内之豊の娘でお竹が見受けられます。

1585年、16歳の時に1500を率い、富山の役にて初陣を果たしました。
1590年の小田原攻めでは、韮山城の戦いに参じています。


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1598年に豊臣秀吉が死去すると、徳川家康に接近して忠節を尽くし、1600年3月に森家は、信州・川中島の海津城に13万7500石にて加増転封となりました。
美濃の金山城は、石川貞清の領地となりますが、居城は犬山城になっています。

川中島では、かつて兄を裏切ったた高坂昌元(春日信達)の一族を捉えて処刑したのもつかの間、徳川家康が会津に向かうと、いち早く宇都宮城に着陣しました。
しかし、真田昌幸真田信繁石田三成に協力することになったため、上田城の抑えとして、松本城主・石川康長小諸城主・仙石秀久と共に本国戻って防備を固めました。

森家における戦闘としては、家臣の井戸宇右衛門が守る葛尾城に、真田信繁が少数で夜襲や朝掛けを行っていますが、撃退しています。
このくらいであったため、加増にはなりませんでしたが、戦後、海津城(侍城)を安堵されています。

1602年には、川中島にて検地をやり直した結果、農民の税額は約40%増えたようで、領地の全部で一揆となりました。
しかし、徹底的に鎮圧し捕縛したうち600名を処断しています。

そして、小早川秀秋が急死すると、1603年に美作一国18万6500石を与えられて津山藩への加増転封となり、川中島には松平忠輝が入ることになりました。
ただし、このときも、美作(みまさか)の旧・小早川家の家臣・難波宗守ら2680名は、森忠政の入国を拒み国境を固めます。
そのため、美作菅党の有元佐政を調略して案内人にすると、裏道を通過して美作に入りました。
また、有元佐政は反対している武将らを説得し、早くから臣従した者は森家に仕官が許されましたが、あとからの者は士分剥奪や帰農扱いと、ここでも厳しい対処が取れられています。


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更に美作でも検地を改めて行ったところ、24万石と数値がはじき出されましたが、流石に採用せず、土豪には頭百姓の格を与え、大庄屋・肝煎・庄屋などに取り立てるなどして、支配を強化しました。

美作で森忠政は、院庄構城(院庄館)を最初の住まいとして、その付近に平城の新築を開始した模様です。
しかし、新築場所を巡って、関係が悪化していた重臣・井戸宇右衛門との対立が表面化し、森忠政は、出雲阿国の夫として知られる妻の兄・名古屋山三郎に井戸の殺害を命じました。
この件で、川中島で引き継ぎ作業をしていた筆頭家老の林為忠が出奔したため、以後は若い各務元峯が頼りとなります。

そして、鶴山に新城の建設を開始し、これが津山城になるのですが、工事は13年掛かっています。

津山城

そんな中、1608年には、筆頭家老の各務元峯が喧嘩して、家老・小沢彦八を殺害します。
仲裁に入った家老・細野左兵衛も家臣によって斬り殺されると言う不祥事が起こりましたが、大塚丹後守が事件を抑えました。
しかし、その大塚丹後守も慶長17年(1612年)7月に死去します。
そのため、出奔したあと江戸幕府旗本になっていた、数少ない生き残りの一門である叔父・森可政の召し抱えを徳川幕府に嘆願して迎えています。
執権となった森可政は5000石、更には従弟・森可政の四男である森可春は3000石を与えて、家中を安定させました。
なお、森忠政は叔父・森可政の津山入りを、自ら出迎えるなど配慮をしたと言います。

1614年、大坂冬の陣では池田忠継らと今橋付近に布陣し、1615年の大坂夏の陣では、森可春が布施屋飛騨守を討つなど森家は208の首級を挙げて活躍しました。


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1616年、歳月を費やして壮大な津山城が完成し、領内各地から商人・職人を集めて津山も賑わうようになり、善政を敷いたようです。

1626年には、嫡子・森忠広に、2代将軍・徳川秀忠の養女となった亀鶴姫(前田利常の娘)との婚姻を成立させます。
しかし、1630年に亀鶴姫が18歳で早世し、まだ子もいなかったため、将軍家との姻戚関係は解消となりました。

また、嫡子の森忠広も家督を継ぐこと無く、1633年に死去します。
これは、酒に溺れた森忠広を叩き直すために、江戸屋敷の一室に軟禁状態にしたためともされ、死去したことをすぐに報告しなかった森忠政は、幕府と前田家から叱られています。
そして、森忠政は外孫(森忠広の甥)である森長継を養子に迎えて跡継ぎに指定しました。

堀尾忠晴が亡くなり無嗣改易となったため、出雲・石見・隠岐の3ヶ国への加増転封の話も出ましたが、3代将軍・徳川家光の上洛に際して京都に赴いていた1634年7月6日、京の大文字屋宗味の邸宅にて夕食を取ったあと、宿所にしていた妙顕寺に戻る途中で、体調が急変します。
森忠政は腹痛と嘔吐感を訴え、その夜、未明に息を引き取りました。
死因は桃の食中毒とされます。享年65。


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津山藩2代藩主には森長継が就任しましたが、3ヶ国加増の話は消滅しています。
しかし、森長継は89歳の長寿であり、男子24人とも言われる子沢山でした。
のち、森家は改易(所領没収)となりますが、赤穂城での復帰が許されて、幕末まで赤穂藩主として続きます。

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