出雲阿国 京にて人気となったかぶき踊り「歌舞伎の創始者」

出雲阿国とは

出雲阿国(いずもの-おくに)の出生は諸説あるが、出雲・杵築中村に住む鍛冶職人・中村三右衛門の娘で、戦国時代の1572年にうまれたとされている。
出雲大社の巫女となると、出雲大社勧進のため諸国を巡回するようになる。
その際に「ややこ踊り」と呼ばれる勧進歌舞伎を演じて、出雲大社への寄付を募った。

出雲阿国が京都で最初に興行したのは、北野天満宮だとされ、のちに五条河原や四条河原にて公演していたようだ。
その踊りが大変評判となりやがて「かぶき踊り」と賞賛されるようになる。


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年代などが分かっている部分では「クニ」と「菊」と呼ばれる女性が1600年にヤヤコ踊りを、その後、この「クニ」が1603年に「かぶき踊り」を踊ったと見受けられる。
11歳位の幼子2人が、奈良の春日大社で「ヤヤコ踊り」を舞ったと言う記録もある。

出雲阿国

そもそも「神に捧げる」ための踊りだったものを、出雲阿国は「庶民を楽しませる踊り」へと発展させていったものと推測でき、歌舞伎の創始者ともされる。
槍の名人でも有名な名古屋山三郎が演出を手掛けたとも言われている。

下記は出雲大社近くにある、道の駅・大社ご縁広場の「出雲阿国の像」。

出雲阿国の像

京都で人気を得ると、伏見城にも招かれて演じたとあるが、1607年に江戸城にて勧進歌舞伎を上演した後、出雲阿国の行方はわかっていない。
没年は、1613年とも1644年ともあり、晩年は良く分かっていないので、まぁ、名古屋山三郎の愛人として過ごしたなど、このような女性だけに様々な説がある。
なお、京都大徳寺・高桐院などに出雲阿国の墓とされるものがある。
更に、出雲大社から稲佐浜へ向かう途中の山根の太鼓原の石段(阿国寺の正面)を登ったところにある中村家の墓近くに、出雲阿国の墓がある。(下記写真)

出雲阿国の墓

上記の入口を入った、小高い所の墓地の一角に、出雲阿国の墓がある。
国道431号沿いだが、4台ほどの駐車場も道路に面して用意があった。

出雲阿国の墓

その後「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられると、徳川幕府は風紀の乱れの元だとして、1629年には女性の芸人者が舞台に立って踊る事を禁止した。


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※出雲阿国に限らず、他の人物でも諸説あり、良く分からない部分が多々あります。当サイトでは参考文献などをもとに、まとめている内容ではありますが、100%真実とは確認のしようがありませんので、念のため記載させて頂きます。

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