間宮善十郎 間宮康俊 北条家臣と間宮林蔵・杉田玄白の意外な関係

戦国時代の1569年、三増峠の戦いにて討死したとされる、北条家の家臣・間宮善十郎の墓と伝えられる塚が、合戦跡にあり、その場所からは1998年に渡来銭や大腿部に傷がある壮年男性の遺骨も発掘されています。
かなりマイナーな話になってしまいますが、その間宮善十郎と言う武将に関して、徹底的に間宮氏を中心に調べてみました。
まず、小田原城主・北条家の家臣で「間宮氏」と言うと、ピンとくるのが相模14騎筆頭とされる間宮氏である笹下城主・間宮康俊(まみや-やすとし)となります。


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あの樺太を江戸時代後期に調査した間宮林蔵のご先祖様と言うと分かりやすいでしょうか?
間宮海峡の偉人ですね。北条滅亡後に常陸に流れた間宮一族です。

間宮康俊(間宮豊前守康俊)は1518年生まれの勇猛果敢な武将で、玉縄衆として北条綱成の与力を務めました。
1532年から開始された鶴岡八幡宮の再建では、1536年から奉行として間宮康俊の名が、大曾根城主・笠原信為と共に見られます。

その後、伊豆衆の水軍の管理も行ったようで、1559年の小田原衆所領役帳では698貫とありますので、軍役として馬18騎、鉄砲7挺、鑓42本、大小旗7本といったところでしょうから総勢140名、農兵も入れると560名位の部隊を率いたと言う事になります。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、山中城主・松田康長の補佐として守備しました。
敗戦濃厚となると、寄親の北条氏勝(北條氏勝)と一族を玉縄城まで退却させることに成功し、間宮康俊は袋崎出丸にて200を率い奮戦し、一柳直末を討ち取るなどしましたが、羽柴秀次・堀秀政中村一氏・一柳直末・堀尾吉晴山内一豊らの猛攻を受けて、1590年3月29日討死しました。享年73です。

間宮康俊は「白髪首を敵に供するのは恥」だとし、墨汁で髪を染めて突撃したと言います。(自刃したとも)

山中城で最期を遂げた間宮康俊の家族は、結構名前が分かっていまして、弟に間宮綱信、間宮信好、間宮信俊がいます。
そして、間宮康俊の子としては、順番に間宮康次、間宮康信、間宮直次、間宮善十郎、間宮信高、間宮元重などがおり、娘としては、久(徳川家康の側室)、継(古河公方・足利義氏の家臣・豊前氏盛の妻)が見受けられます。

ここでようやく、間宮善十郎の名が出てきましたが、この通りですと、間宮康俊の子が間宮善十郎と言う事になります。


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北条綱氏(北條綱氏)に従って、父や兄と共に三増峠に出陣したと考えるのが妥当だと思いますが、この時、間宮善十郎の年齢は23であったとも言われています。
このように間宮善十郎は若くして討死しましたので、詳しい動向に関しては不詳です。

ちなみに、間宮康俊の弟・間宮綱信(間宮若狭守綱信)は、北条氏照の与力で妻は宅間上杉家・上杉富朝の娘。
子に間宮正重、間宮頼次、間宮重信らがいます。
この間宮綱信(間宮若狭守綱信)は、北条家から織田信長への使者として、1580年に安土城を訪れたことでも知られています。
その途上にて徳川家康とも面会したようで、間宮綱信(間宮若狭守綱信)は、北条滅亡後に徳川家の旗本として取り立てられ、氷取沢陣屋主として隠居料500石を与えられています。

更に、ちなみにですが、横浜市磯子区杉田町には、笹下中里陣屋があり、この杉田間宮氏の一族からは、あの有名な杉田玄白を輩出しています。

さて、間宮善十郎の出生地かも知れない笹下城(篠箇城)は、間宮康俊の父・間宮信元が築城したとされ、現在の横浜市港南区笹下にある成就院付近が笹下城跡であったとされます。

成就院の背後にある台地が「本丸」と考えられ、近くにある笹下御下公園は下屋敷跡とされるそうです。
ただ、横浜ですので付近は宅地開発が進み、遺構はほとんど失われています。

成就院の山門

成就院の山門は、間宮氏の陣屋を廃止した際に、移築したものです。

成就院の場所は、下記の地図ポイント地点となります。

下記は山中城にある間宮康俊の墓です。

間宮康俊の墓と松田康長の墓

笹下城 間宮氏が城主を務めた横浜の拠点のひとつ
三増峠の戦いを検証してみたはこちら
山中城の解説【日本100名城】豊臣X北条の激戦地「山中城の戦い」箱根
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