督姫~北条氏直に嫁いだ徳川家康の次女


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 督姫徳川家康の次女で、1565年11月11日に三河・岡崎城で誕生した。
 母の名は、徳川家康の最初の側室である西郡局(鵜殿長持の娘)。

 松平信康結城秀康徳川秀忠松平忠吉、松平忠輝らは異母兄弟で、亀姫、振姫は異母姉妹となる。
 督姫は於普宇、富子、播磨御前、良正院とも呼ばれる。

 1582年、明智光秀より本能寺の変がおこり、織田信長が横死した為、徳川家と北条家で甲斐・信濃の空白地帯で争う事となった。(天正壬午の乱)

 長期化を懸念した徳川家康と北条氏直北条氏政は、旧織田領の甲斐・信濃を徳川家が、上野を北条家が治めると言う事で1582年10月27日に和睦。
 その和睦の証しとして、徳川家康の次・督姫(19歳)が、北条氏直(22歳)の正室として嫁ぐことになり、1583年8月15日、督姫は小田原城へ入った。

 1585年頃には、北条氏直との間に長男・北条氏次(ほうじょう うじつぐ)が誕生。他にも二女をもうけている。

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 四国・九州も平定した豊臣秀吉は、北条氏直・北条氏政に対して、再三上洛するように促したが、上洛=豊臣家に臣従と言う事で、北条氏直・北条氏政は上洛を引き延ばしていた。
 督姫の父・徳川家康も、北条氏直・北条氏政に翻意するよう交渉したが、うまくいかず、1590年、豊臣秀吉は小田原攻め(小田原征伐)を開始。

 1590年7月5日になって、北条氏直(北條氏直)は豊臣秀吉に降伏し、小田原城を開城し、戦国大名としての北条家は滅亡した。
 強行派だった北条氏政・北条氏照は切腹となったが、北条氏直は義父・徳川家康の助命嘆願もあり、助命されて高野山へに流されて謹慎生活を送った。

 督姫(27歳)は、一時、徳川家康の元に戻ったと考えられる。

 翌年、北条氏直が赦免され8月に10000石で復帰すると、督姫は北条氏直のもとに赴いたようだが、1591年11月に北条氏直(30歳)が病死。
 その為、督姫は徳川家康の元に戻った。

 北条氏直との間に生まれた娘の1人は1593年に没した。摩尼珠院殿妙勝童女。

 督姫は豊臣秀吉の仲介で、1594年に三河の吉田城主・池田輝政(15万石)に再嫁。
 この時、北条家に伝来していた「酒呑童子絵巻」(狩野元信筆、現在はサントリー美術館所蔵)と「後三年合戦絵詞」(重要文化財、東京国立博物館所蔵)を持参している。
 なお、池田輝政には既に正室・糸姫(中川清秀の娘)がいたが、産後の体調不良を理由に離縁したうえで、督姫を継室に迎えたのであった。

 そして、北条氏直(北條氏直)との間に生まれていた1人の娘が、池田輝政の長男・池田利隆の正室となったが1602年に没し、宝珠院殿華庵宗春大禅定尼と諡されている。

 池田輝政との夫婦仲は良く、池田忠継、池田忠雄、池田輝澄、池田政綱、池田輝興、池田振姫など5男2女をもうけている。

 池田輝政は関ヶ原の戦いでも徳川家康に味方し、86万石となり姫路城主となった。

 岡山城主・小早川秀秋の後継争いでは、督姫が江戸幕府を動かして、1603年、わずか5歳の第1子・池田忠継を岡山城主にすえ、池田輝政の嫡男・池田利隆を池田忠継の執政代行とした。

 1613年、池田輝政の死後、督姫は落飾して良正院と号し、駿府にも一時下向。その後、1615年2月4日に姫路城(京都とも?)で死去した。享年51。
 死因は疱瘡であったとされる。

 法名は良正院殿隆譽智光慶安大禅定尼。
 墓所は知恩院の塔頭・良正院(京都市東山区)。墓は知恩院山腹の墓地内にある。

 東京国立博物館には法体後の姿を描いた「良正院像」が所蔵されている。
 督姫亡きあと、池田家の督姫の子供たちは、徳川家康の外孫として優遇された。

 督姫が産んだとされる北条氏次は、そもそも実在自体が不詳で良く分かっておらず、基本的に北条氏直との間に男子は生まれなかったとされている。
 言い伝えによると北条氏次は北条家滅亡後、仙台に逃れて88歳まで生きたとされているが、北条家の家督を継承しておらず、疑問点も多い。
 現在、仙台市内の寺に子孫が建てた墓碑が残るが、そこには「氏直と督姫の子」と記載されている。

徳川家康がなぜ天下を取れたのかを検証「人財智生」
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コメント

  1. 我が地元の城主戸田孫三郎は、豊臣秀吉軍の織田信雄の旗持ちとして小田原北条の戦いに参戦、そこで討ち死にする。
    城は村人が破壊し、残された嫡男と母親は(徳川家康の従妹)江戸城の家康の元え逃亡した。10年間家康の側で
    暮らし(墺奥の出入りは許可されていた)家康に懇願し、14百石で国元に帰参し、初代尾張藩城主徳川義直公の側付
    として、家は幕末まで仕える。

    • 高田哲也
    • 2015年 3月 10日

    増田さま 先日は戦国武将研究会の方にもご登録賜りまして、誠にありがとうございます。
    また、今回もコメント御礼申し上げます。先日のコメントにもご返信を入れたつもりだったのですが、反映されていなくお詫び申し上げます。
    戸田孫三郎なる人物、全く存じてあげておりませんでした。勉強になります。

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