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 北条氏直(ほうじょううじなお)は、相模の戦国大名で小田原城主、後北条氏の第5代当主だ。
 生年は1562年で、父は第4代当主の北条氏政、母は正室・武田信玄の長女(黄梅院)、小田原城で誕生した。

 戦国大名・北条家における最後の当主ではあるが、北条早雲北条氏綱北条氏康、北条氏政と言った歴代当主の中で最も知名度が低いが、北条家を語る上では欠かせない人物だ。

 北条氏直(北條氏直)の母・武田信玄の長女の相模への輿入れの際には、小山田信茂らの采配で約10000人の行列で、盛大なものだったと伝えられている。
 1554年12月、12歳で北条氏政(16歳)に嫁ぎ、北条氏政との夫婦仲は極めて良好であったとされる。

 北条氏直が生まれる前の1555年に北条氏政と武田信玄の娘の間には男子が誕生していたが夭折したので1562年に生まれた北条氏直は、実際には次男であったが、後継者である嫡男と表記される。
 北条氏直の幼名は国王丸。仮名は北条家の伝統で新九郎。次期武田家当主とされていた武田義信は母の兄、武田勝頼は異母弟である。

 この頃、北条家の当主は北条氏康(北条氏政の父)であり、下総の千葉氏・高城氏、筑波・小田城小田氏治、深谷城の上杉憲盛らを北条家に再度帰参させ、上杉謙信勢を破り上野まで後退させるなどしたが、上杉謙信は厩橋城古河城を奪還し、忍城の成田長泰・成田氏長、小山祇園城・小山秀綱、結城晴朝、小田氏治を降伏させるなど、北条方の諸城を攻略するが、上杉・北条ともに支配権を安定させるまでには至らず、一進一退の攻防が続いていた。

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 1560年5月、桶狭間の戦いで、今川義元織田信長に討たれると、今川家の勢力が衰退を開始。

 1568年12月13日、武田信玄が徳川家康と共同で駿河へ侵攻すると、北条氏康は今川氏真を救援して武田信玄に対抗。これにより「甲相駿三国同盟」は破たんした。
 
 これに北条氏康は武田信玄の娘(黄梅院)と北条氏政を離縁させて、甲斐に送り返している。
 その際、北条氏政は堪忍分として16貫文余を、武田信玄の娘に与えている。甲府の大泉寺の安之玄穏住職を導師に、出家したとも伝わるが翌年、1569年6月17日、27歳で死去した。武田信玄は、菩提寺・黄梅院を建立して葬り、墓碑が現存している。

 駿河を追われた今川氏真は、妻・早川殿の実家である北条氏康を頼り、早川に屋敷を与えられていた。
 1569年5月23日には、北条氏直(北條氏直)が今川氏真の養子になる形で、北条氏直が成長した際、駿河国を譲られる事になった。
 1569年6月には、北条氏政と上杉謙信の間で越相同盟が締結。それをよそに、武田信玄が小田原城攻めを行い相模に侵入し、小田原城下まで軍を進めた。北条氏康・北条氏政は小田原城にて籠城したが、撤退時に三増峠の戦いで、武田勢と北条勢(北条氏照北条氏邦・北条氏綱など)が大規模な戦闘となったが、武田信玄は津久井城を牽制しつつ、甲斐に帰還した。

 1571年10月3日、北条氏康が亡くなり、父・北条氏政が家督を継ぐと、北条氏政は1571年12月27日に武田信玄と再度同盟。
 その際、箱根湯本の早雲寺の塔頭に黄梅院を建立し、離縁した正室の分骨を埋葬して手篤く弔っている。
 しかし、12月に今川氏真は北条家から離れて、徳川家康を頼っており、この際、北条氏直の養子関係も解消されたと考えられ、実際問題、駿河は北条家が手にすることはできなかった。

 武田信玄も1573年に死去し、あとを継いだ武田勝頼は1575年、長篠の戦いで、織田信長・徳川家康軍に大敗北を喫していた。

 なお、北条氏直の元服は、1577年1月22日に北条夫人(北条氏康の6女)が武田勝頼の正室として嫁いだあとの1577年3月。この時、古河公方・足利義氏に書状を送っている。そして、1577年11月の上総攻めにも参加し、15歳で初陣を飾っている。
 この戦いのあと、安房の里見義弘と北条氏政は和睦し、北条氏政の娘が里見義頼に嫁ぎ、里見家と北条家は同盟した。

 1578年、上杉謙信が死去。上杉謙信の甥・上杉景勝と、北条氏政の弟で上杉謙信の養子・上杉景虎の間で、上杉家の後継者争い「御館の乱」がおこった。
 北条氏政は下野において佐竹氏・宇都宮氏と対陣中であったため、5月に上杉景虎援助のために北条氏照・北条氏邦らを越後に派遣したが、直江兼続らの抵抗にあい、小田原へ引き返している。上杉景虎(24歳)は、北条家を頼り逃亡する際に落命した。
 北条氏政は北条夫人を通じるなどして、武田勝頼にも救援を依頼していたが、武田勝頼は妹の菊姫を上杉景勝の正室に送るなどして、上杉景勝と同盟した為、北条氏政は武田との同盟を破棄して、徳川家康と同盟した。
 北条家にとっても重要な上野は、武田勝頼家臣の真田昌幸の活躍もあって、武田勢が圧倒していた。

 1580年3月には、駿河湾で、武田水軍と北条水軍の戦いである「重須の戦い」でも武田勝頼と北条氏直は激突した。
 
 1580年8月19日、43歳の父・北条氏政は、19歳の北条氏直に家督を譲った。とはいえ実際には父・北条氏政は、若い北条氏直の後見として実権を握っており、北条家の運営権は引き続き北条氏政が事実上掌握していた。しかし、北条氏政は出陣中に隠居したと言う異例のものであったとされる。

 1582年2月、織田信長の嫡子の織田信忠を総大将にして、滝川一益が軍監となり、織田信長がいよいよ武田攻めを開始。高遠城などを攻略し武田勝頼を追い詰めた。
 徳川家康と同盟していた北条氏直にも、武田攻めを行うようにと織田信長からの通達があったが、徳川家康からはあまり情報が入ってこなく、北条氏政は北条氏邦に上野方面から情報収集をさせた。その後、伊勢からの船による情報が入り、織田信長の武田領国侵攻を確認すると、北条家も駿河の武田領に侵攻を開始。
 小山田信茂にも裏切られた武田勝頼(37歳)は、3月11日に天目山の戦いで正室・北条夫人19歳(桂林院)と共に自刃し、甲斐武田氏は滅亡した。

 武田遺領を手中にした織田信長は滝川一益を上野・厩橋城に入れて関東管領に任命し、関東の統治を目論んだ。甲斐には河尻秀隆が入り、武田の残党を駆逐開始していた。
 北条氏政(北條氏政)は、北条氏直に織田家から姫を迎えて婚姻することを条件に、織田家の親族衆として関東一括統治を目論んだが、なかなか織田信長から返事は届かなかった。

 そんな中、明智光秀が謀反を起こし、6月に織田信長が本能寺の変で命を落とすと、甲斐の河尻秀隆が土豪一揆により殺害されるなど、武田遺領を巡る争いも一変した。
 本能寺の変で、織田信忠も落命したのを知った北条氏直は、武田攻めでの損害もほとんど無かったことから、叔父の鉢形城主・北条氏邦や、八王子城主・北条氏照らと共に56000の大軍で上野侵攻を開始。
 滝川一益は上野を支配することになってまだ3ヶ月であり、軍の統制も充分ではなく、配下の沼須城主・藤田信吉の反乱などもあり、士気も上がらなかったと言えよう。
 北条氏直は、6月16日には倉賀野に進出し、本庄に本陣を置いた。その後、富田、石神に布陣し、18日には金窪城で滝川一益勢と北条氏直勢は激突。初戦では北条氏邦が率いる先鋒が敗退したが、6月19日の「神流川の戦い」で、北条氏直の本隊が、滝川一益の本隊約2500に勝利した。滝川勢は総勢20000だったが、士気が上がらない上野衆はほとんど戦闘に参加しなかったようだ。
 滝川一益は、箕輪城へ退却すると上野国衆を箕輪城に招いて別れの酒宴を開き、真田昌幸らの援助もあり、小諸を経て本拠地の伊勢長島城向けて逃亡したが、神流川の戦いのあと、真田昌幸は北条氏直に降った。
 北条氏直は、滝川一益を追って上野から碓氷峠を越えて信濃に侵攻し、小諸城に大導寺政繁を配置すると佐久・小県郡を支配下におさめ、更に諏訪へ進軍し、諏訪頼忠や木曾義昌を味方に付けるなど、信濃の中央部を制した。

 滝川一益は北条氏直(北條氏直)に敗戦したことで、清洲会議にも間に合わず、織田家での地位を下げ、柴田勝家に与して羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と激突したが、以後は不遇なまま一生を終えている。

 ようやく体制を整えた徳川家康は、7月3日に甲斐へ侵攻を開始して、8月に到着。
 北条氏直は若神子城(須玉町)を本陣にすると、徳川家康は新府城(韮崎市)を本陣として、80日間対陣した。(天正壬午の乱)
 神流川の戦いのあと、北条家に加わっていた上田城の真田昌幸は、徳川勢に組していた依田信蕃の説得で、徳川の軍門に加わり、小田原城を守る北条氏政からの補給路をゲリラ戦にて叩いた。
 兵力では勝っていた北条勢であったが、徳川家康は信濃豪族の取り込みに成功する一方、徳川勢の鳥居元忠が、北条別働隊の北条氏忠・北条氏勝を甲斐黒駒(御坂みち)で敗走させるなど戦略は有利に進め、長期戦を懸念した北条家は、織田信雄織田信孝兄弟の調停も受け入れ、10月27日に北条家と徳川家の和睦が成立した。
 上野は北条氏直の領地となり、甲斐・信濃は戦いを有利に進めた徳川家康が領有。また、徳川家康の娘が、北条氏直の正室として嫁ぐことで同盟成立となった。
 こうして、翌年の1583年8月15日、徳川家康の次女・督姫(19歳)が、北条氏直(21歳)に嫁いだのだ。

 その後、北条氏直は下野・常陸方面に侵攻して勢力を拡大し、小田氏治を援助するなどして、佐竹義重や結城晴朝、太田資正らを圧迫。
 しかし豊臣秀吉が台頭し朝廷の権威を利用して1587年12月3日「関東惣無事令」を発令し、私戦が禁止されることになった。
 このように、徳川家康と姻戚関係となった北条氏直であったが、中央では豊臣秀吉の政権が成立しつつあり、豊臣秀吉は北条氏政・北条氏直が戦いをやめて、上洛しなければ成敗しようという動きとなってきた。その為、北条家は、豊臣秀吉との戦いを意識するようになり1587年から軍備増強を開始したが、北条家は北条氏政、北条氏照、北条氏邦らの強行派・主戦派と北条氏直(中間派)、北条氏規(穏健派)に別れてしまい、北条氏直は徳川家康の娘である妻と、強行姿勢の父・北条氏政の間で苦しんだようだ。
 
 豊臣秀吉は、北条氏政・北条氏直親子に上洛を命じたが、北条家はなかなか応じない。
 徳川家康は豊臣秀吉を納得させるため「北条氏規を上洛させよう」と試み、北条氏直は強行姿勢の父・北条氏政らを退けて、北条氏規を上洛させる判断をした。
 この北条氏規は、北条氏政の弟で幼少期、今川家の人質として徳川家康と部屋が隣同士だったと言う。
 1588年8月に上洛した北条氏規は、豊臣秀吉に拝謁した。
 その一方で、北条氏政、北条氏照、北条氏邦らの強行派は、兵数を増やし、城の改修を進め、武器の大量生産など兵力増強を進めて臨戦体制を整えていった。

 一方、先の徳川家との和睦で北条家の領地となったはずの沼田領では、真田昌幸、真田信之真田幸村らが抵抗し、なかなか北条家の支配下になっておらず、1585年8月には徳川家康と上田合戦(第1次上田城の戦い)にもなったが、徳川家は敗退し、未だ沼田領が北条家の領地になっていなかった為、1589年7月に、豊臣秀吉が調停に乗り出した。
 その結果、沼田城を含む利根沼田の3分の2は北条家になったが、真田氏の墓所があった名胡桃城を含む残り3分の1はそのまま真田領と裁定された。
 その真田家と北条家の和解条件として、豊臣秀吉は、北条氏直又は北条氏政どちらかの上洛を改めて要求した。

 実力者本人が上洛すると言う事は、すなわち、豊臣秀吉に臣従し、臣下となる事を意味する。北条家は板部岡江雪斎を使者として送り、一旦は北条氏政が上洛する予定であることを豊臣秀吉に伝えた。
 しかし、北条家臣には真田氏との和解内容に不満を持つ者も多く、北条家はいつ上洛するかどうか、決めかねているうちに、北条家の沼田城主・猪俣邦憲が、真田昌幸の家臣・鈴木重則が守る名胡桃城に対し、鈴木重則の家臣・中山九郎兵衛を買収し、偽手紙によって鈴木重則を城外へと誘き出し、その間に中山九郎兵衛に城を乗っ取らせるという謀略によって奪取すると言う事件が1589年10月23日に起こった。
 豊臣秀吉はこれに激怒。
 豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた豊臣秀吉の触れ「惣無事令」(そうぶじれい)に違反したとして、豊臣秀吉は北条討伐令(小田原攻め)を全国の諸大名に通知。
 1589年12月13日、豊臣秀吉は宣戦布告の朱印状を以って陣触れを発した。

 1590年の豊臣秀吉の小田原征伐に関しては「小田原攻め」をご覧願いたい。

 黒田官兵衛の交渉を受けて、豊臣秀吉に降伏する事を決めた北条氏直は、切腹する代わりに家臣の命を助け欲しいと申し出たことや、徳川家康の婿であったこともあり、豊臣秀吉は北条氏直の命だけは奪わなかった。
 しかし、主戦派だった北条氏政・北条氏照と、宿老の大道寺政繁・松田憲秀は切腹を命じられ、1590年7月11日に北条氏政・北条氏照が切腹。
 1590年7月12日には、北条氏直の高野山での謹慎処分が決定され、8月21日に北条氏房・北条直重・北条直定・北条氏規・北条氏忠・北条氏光ら北条一門及び、松田直秀・山角直繁・遠山直吉・山上久忠らの家臣300を伴って小田原を出立し、8月12日に高野山の高室院にて謹慎生活を開始した。
 
 翌年の1591年1月から、北条氏直(北條氏直)は謹慎が解けるよう活動開始して、2月には豊臣秀吉から赦免が通知された。
 5月上旬には大坂にあった旧・織田信雄邸を与えられ、8月19日には豊臣秀吉と対面し正式に赦免と、河内に9000石と、下野に1000の合計10000石を与えられ大名として復活した。
 さらに小田原に居住していた督姫も8月27日に大坂に到着した。
 北条氏直は家臣への知行宛行、謹慎中の借財整理をおこなうなどしていたが、11月4日に大坂で病死。
 多門院日記によると死因は疱瘡(ほうそう、天然痘)と記述されている。享年30。

 北条氏直の死後、従弟で北条氏規の嫡子である、北条氏盛が名跡と遺領の内4000石を相続し、1598年に北条氏規の跡を継いで11000石の大名となり、北条宗家は河内・狭山藩主として幕末まで存続した。
 北条氏直(北條氏直)には娘が2人いたが、長女は夭折、次女は池田利隆の許婚となったが1602年に17歳で病死している。

 督姫は北条氏直が死去したあと、徳川家康のもとに戻っていたが、1594年、豊臣秀吉の仲介で、池田恒興の子・池田輝政と再嫁。
 この時、北条家に伝来していた家宝「酒呑童子絵巻」(狩野元信筆、サントリー美術館所蔵)と「後三年合戦絵詞」(重要文化財、東京国立博物館所蔵)を持参している。
 池田輝政との夫婦仲も良く、池田忠継、池田忠雄、池田輝澄、池田政綱、池田輝興、池田振姫など5男2女をもうけた。池田輝政が亡くなったあと姫路城で死去。享年51。

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