武田水軍~武田海賊衆の武将たち

武田水軍 武田海賊衆

 意外と知られていないが、武田信玄は今川家の没落後、駿河を征服すると武田水軍を編成している。
 今川18人衆の一人だった岡部貞綱が1569年武田家臣となる。武田信玄は由緒ある「土屋姓」を与え岡部貞綱は土屋貞綱と改名し、武田水軍の総司令官となった。
 土屋貞綱が迎えた娘婿・土屋昌恒武田勝頼に最後まで仕え、武田滅亡の際、天目山で討死していることでも知られる。
 1571年、北条や里見の水軍に対抗する為、土屋貞綱は九鬼嘉隆に敗れた伊勢水軍の小浜景隆らも味方につけ、武田水軍(海賊衆)は駿河国江尻(静岡市清水区)を本拠地とした。
 1573年頃には伊豆の間宮武兵衛・間宮造酒丞(間宮信高)も武田水軍に加わって北条と戦っているのが伺える。
 この1573年に武田信玄も亡くなった。甲陽軍鑑における武田海賊衆の編成は下記の通り。


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 旧今川海賊衆:土屋貞綱(土屋豊前守貞綱、岡部忠兵衛貞綱)は船12艘と同心50騎、伊丹康直(伊丹大隅守康直)は船5艘。
 旧伊勢海賊衆:小浜景隆(小浜伊勢守景隆)は安宅船1艘と小舟15艘、向井正重は船5艘。
 旧北条海賊衆:間宮武兵衛(ふへい)が関船10艘、間宮造酒丞(みきのじょう)(間宮信高)は関船5艘。

 海賊衆は平時においては漁業や海運を行い、経済活動でも大きな貢献を果たしている。 小浜景隆は1572年には武田信玄より一ヶ月馬三疋の諸役御免許を得ており、陸上においても商業活動を行っていた。つまり、平時は商人としても活躍していた訳である。
 また、小浜景隆は武田水軍で唯一の大型軍艦「安宅船」を有していた事もあり、1573年に武田勝頼から3000貫?に加増されたとも言われ、武田氏が厚遇していることが分る。
 向井正重(向井政重)は、武田水軍に加わると持船城を任された。その後、興国寺城主となったが、1578年9月18日徳川勢の牧野康成に攻められ、養子・向井正勝(長谷川長久の子)と共に討死。子には向井正綱がおり、のち徳川水軍に加わっている。

 1580年3月15日には駿河湾の重須沖で相模水軍との海戦(駿河湾海戦・重須の戦い)が激しく行われたと言う。
 北条水軍は梶原備前守と子の梶原兵部大輔を先鋒として、清水越前、富永左兵衛尉、山角治部少輔、松下三郎左衛門、山本信濃守などの船大将が重須の浦に大船を多数停泊させていた。
 これに対して、武田水軍3隻の関船が3月15日未明に重須の浦に接近し、鉄砲を撃ち港に放火したことにより、海戦が始まる。
 北条水軍は10隻もの安宅船が出撃。武田水軍が浮島ヶ原に退却しようとしたところに、狩野川河口から2隻の武田の関船が現れ、武田は関船5、北条は安宅船10での海戦となった。
 北条水軍は、武田の関船を包囲する作戦を取り、2隻を浜辺沿いに置いて陸軍・三枚橋城との間を遮断しつつ、残りの8隻で沖に出て武田船を大きく包囲し大筒や鉄砲で攻撃した。速度が速い武田の関船は巧みに北条水軍の攻撃をかわすものの、相手が安宅船では鉄砲や弓矢の攻撃も効果がない。千本松原に陣を敷く武田勝頼勢は、腰が浸かる深さまで海に入り、鉄砲を北条水軍に向けて支援攻撃をしたとも言う。
 激戦が続いたがやがて夜になった為、双方、船を引き上げた。
 甲陽軍鑑によると、向井正綱の活躍により北条水軍は逃げ始め、北条の安宅船を奪ったともある。

安宅船

 安宅船(あたけぶね)は、室町時代後期から江戸時代初期にかけて日本で広く用いられた軍船の種別の1つである。当時、日本の艦船には安宅船の他に、小型で快速の「関船」(せきぶね)があった。関船をさらに軽快にした「小早」(こはや)は主に偵察や伝令などの用途に用いられた。
 艦隊は安宅船を中心に関船と小早を配して編成され、安宅船がいわば戦艦の役割を果たしていたと考えられる。
 安宅船は全長30mから50m前後の大型船と巨体で武装を施しているため速度は出ないが、戦闘時には50人以上のの漕ぎ手によって推進力を得ていた為、小回りがきき、またその巨体には数十人から百数十人の戦闘員が乗船することができた。

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