近藤綱秀と浄泉寺城(近藤砦)・出羽山砦~鎌倉景政も


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近藤綱秀にまつわる浄泉寺城(近藤砦)を調べて見ますと、鎌倉景政の逸話もでてきます。
そんな、浄泉寺城(近藤砦)と近藤綱秀・鎌倉景政をまとめてみました。

まずは浄泉寺城(近藤砦)からご紹介致します。
境内は墓地を設けるためにかなり改変されてしまっているようで、遺構的なものは乏しいです。

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湯殿川からは多少の高台(と言うか中腹)にあたるので、少々の要害ではあり、館跡と言われると納得できます。

浄泉寺境内にある土塁に見えるものがありますが、ハッキリと確証は得られません。

浄泉寺境内にある土塁跡

浄泉寺城(近藤砦)へのアクセス・行き方ですが、下記の地図ポイント地点が参拝者用の駐車場ですので、止めることができます。
地図は縮尺変更してご覧ください。
※引き続き、鎌倉景政、近藤綱秀へと話は続きます。

鎌倉景政

鎌倉景政(かまくら-かげまさ)は、相模の中を領していた鎌倉景成の子として1069年に生まれました。
八王子・浄泉寺の辺りは平安時代末期には鎌倉景政(鎌倉権五郎景政)の館であったとされます。
しかし、定説では鎌倉景政の居館は藤沢市村岡東、又は鎌倉市由比ガ浜とされています。

ただ、ここ椚田(くぬぎだ)に館を構えたのは、八王子市仏教会の説明だと18歳である1086年とあります。
なお、鎌倉景政が右目を射られながらも奮闘した逸話があるのは、後三年の役(1083年~1087年)です。
これらを考慮し、目を射抜かれたのが1087年だとすると、元服するとここに住みますが、後三年の役の際に目を負傷。
その後、父・鎌倉景成のあとに家督を継ぐと鎌倉近くの本領に移ったとも推測できます。

鎌倉景政は1105年頃に大庭御厨(神奈川県藤沢市周辺)を開発して、1116年頃には伊勢神宮に寄進していますが、没年は不詳です。
しかし、寺の説明では1083年の16歳の時に目を射られ、1087年9月9日に死去したとあり、もう、よくわかりません。
武士の中の武士の鏡とも言われた鎌倉景政ですので、色々な説がある中の1つとして浄泉寺の話もあると言う事だと思います。

右目の話ですが、源義家勢の先鋒に加わっていた鎌倉景政は、清原勢が放った矢が右目に刺さりながらも、逆に敵を射殺して自陣に帰ったのです。
痛み苦しむ鎌倉景政を見た三浦為次(三浦平太郎為次)が、刺さった矢を抜こうと鎌倉景政の顔に足をかけたと言います。
これに対して鎌倉景政は、怒って三浦為次に斬りかかりました。
「武士であれば矢が刺さり死ぬのは本望だが、土足で顔を踏まれるのは恥辱だ」と言い放ったのです。
三浦為次は謝罪すると、丁重に矢を抜いたと伝わっています。

浄泉寺近くを流れる湯殿川沿いの御霊神社はこの鎌倉権五郎景政が祀られていますが、神奈川県には御霊神社は多くあり、同じく鎌倉権五郎景政が祭神となっています。
ただし、御霊神社の守護神は元々浄泉寺にあったそうで、明治の神仏分離で別れたとの事です。

ちなみに、鎌倉景政の子孫は、鎌倉武士の大庭景義、梶原景時、戦国時代の長尾景虎(上杉謙信)と繋がります。

鎌倉の御霊神社はこちら

なお、鎌倉時代初期には横山党の一族がこの椚田に住み、椚田氏を称していますので、その館として使われた可能性もあるかと存じます。
和田合戦にて椚田太郎、椚田次郎、椚田三郎、椚田四郎、椚田五郎、椚田又五郎が討死し、横山党は滅亡しています。

近藤綱秀

近藤綱秀(こんどうつなひで)の生年は不詳で出自も不明です。近藤助実、近藤出羽守助実、近藤出羽守綱秀とも書かれます。
妻は朝倉政景の娘で、子に近藤照秀(てるひで)がいます。
この妻の父・朝倉政景と言うのは越前・朝倉氏の一族であり、1573年に織田信長によって朝倉氏が滅ぶと、朝倉政景の弟に朝倉能登守(玉縄18人衆)は北条氏政に仕えたと伝わりますが、別系統である可能性もあります。

近藤綱秀は北条氏照(北條氏照)の家臣として働いており、戦国時代の浄泉寺城主は、北条氏照の重臣・近藤助実(近藤綱秀、近藤出羽守助実、近藤出羽守綱秀)とされ近藤砦とも呼ばており、現在ある御霊山浄泉寺の開基(1573年)でもあります。
新編武蔵国風土記稿にも浄泉寺は「近藤出羽守屋舗蹟」と記載されています。

北条氏照が下野・小山領を授かると、近藤綱秀はその内の榎本城主となりました。
1583年には、榎本領の統治として所領宛行や寺領寄進などが見受けられます。
なお、近藤綱秀は独自の印判を用いた書状もあり、その権限は大きかったようで、伊達政宗の重臣・片倉景綱との交渉にも名が見られます。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際、横地監物、狩野一庵、中山勘解由らと共に近藤綱秀は八王子城に籠城して、近藤曲輪を任されますが、1590年6月23日、前田利家上杉景勝真田昌幸らに攻められて壮絶な討死を遂げています。
榎本城主でもありましたので、豊臣家の小田原征伐による北条勢での城主クラスの討死は、この近藤綱秀だけです。

なお、八王子城の東側にある出羽山砦も近藤綱秀が築いたとされていますので、そちらもレポート致します。

出羽山砦(出羽山城)

出羽山砦(出羽山城)は現在、出羽山公園となっています。

出羽山砦(出羽山城)

ちょっとした丘になっており、その自然を生かした散策路を巡らしている公園になっております。
ただ、遺構は失われてしまったのか、城としての見どころはありません。

出羽山砦(出羽山城)

上記が唯一「虎口?」とも感じ取れる散策路ですが、確証はありません。
と言うのも、1590年に北国軍(前田利家・上杉景勝・真田昌幸)が八王子城を攻撃した際の備えとして、近藤綱秀がここに砦を築いたとされているのです。
そのため、充分な築城もできず、防御面は貧弱だったと思われ、実際の八王子城攻めでは、簡単に豊臣勢に奪われたか、又は放棄したかで、逆に豊臣勢の陣所として使われたのではないかと推測致します。

出羽山砦(出羽山城)

一応、出羽山砦(出羽山城)の地図と場所を下記につけておきます。
観光所要時間は10分~20分です。
コープの無料駐車場にジュースを買いがてら止めさせて頂きました。

八王子城落城の悲劇 (八王子城の戦い)
八王子城
近藤綱秀が仕えた「北条氏照」とは?
八王子城の探訪記と写真集
後藤将監屋敷跡と高山四郎時貞館跡【八王子市】
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