近藤綱秀とは 北条氏照の重臣

近藤綱秀

近藤綱秀(こんどうつなひで)の生年は不詳で出自も不明ですが、戦国時代の武将で、小田原城の北条家の重臣でした。
別名は近藤助実、近藤出羽守助実、近藤出羽守綱秀とも書かれます。
妻は伊豆・鎌田城主である朝倉政景の娘で、子に近藤照秀(てるひで)がいます。
この妻の父・朝倉政景と言うのは越前・朝倉氏の一族であり、1573年に織田信長によって朝倉氏が滅ぶと、朝倉政景の弟に朝倉能登守(玉縄18人衆)は北条氏政に仕えたと伝わりますが、別系統である可能性もあります。


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近藤綱秀は北条氏照(北條氏照)の家臣として働き、戦国時代の浄泉寺城主でもありました。
北条氏照の重臣・近藤助実(近藤綱秀、近藤出羽守助実、近藤出羽守綱秀)とされ近藤砦とも呼ばており、現在ある御霊山・浄泉寺の開基(1573年)でもあります。
この頃の北条家における近藤氏と申しますと、滝山衆を統括する北条氏照を筆頭に、大石定久、間宮綱信、近藤綱秀、中山家範の4名が家老と言えます。

北条氏照が下野・小山領を授かると、近藤綱秀はその内の榎本城主となりました。
1583年には、榎本領の統治として所領宛行や寺領寄進などが見受けられます。
なお、近藤綱秀は独自の印判を用いた書状もあり、その権限は大きかったようで、伊達政宗の重臣・片倉景綱との交渉でも近藤綱秀の名が見られます。


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1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際、横地監物、狩野一庵、中山勘解由らと共に近藤綱秀は八王子城に籠城して、近藤曲輪を任されますが、1590年6月23日、前田利家上杉景勝真田昌幸らに攻められて壮絶な討死を遂げています。
榎本城主でもありましたので、豊臣家の小田原征伐による北条勢での城主クラスの討死は、この近藤綱秀だけです。

なお、八王子城の東側にある出羽山砦も近藤綱秀が築いたとされています。

浄泉寺城(近藤砦) 近藤綱秀の居城
出羽山砦とは 八王子城の支城
八王子城落城の悲劇 (八王子城の戦い)
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近藤綱秀が仕えた「北条氏照」とは?
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