太田資高や太田康資と国府台合戦とは(第2次国府台の戦い)


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太田康資(おおた-やすすけ)は、太田資高の嫡男(次男)として1531年に生まれた。通称は太田源六郎、新六郎。
父・太田資高(おおた-すけたか)は、初め扇谷上杉家・上杉朝興の家臣であったが、祖父・太田道灌が暗殺されたこともあり、三浦・荒井城(新井城)落城後に上杉朝興の宿敵・北条氏綱に寝返り、北条氏綱の娘を正室に迎えた。
そして、上杉朝興の居城・江戸城を奪取したのがこの太田資高だ。
その後、江戸城は北条方のものとなり、江戸城・本丸には北条家臣・富永政辰、二の丸には遠山直景が入り、大田資高は太田道灌ゆかりの香月亭に配置されたようである。

このような経緯で、太田資高とは北条氏綱の娘・浄心院の間に生まれたのが、太田康資となり太田道灌の直系の曾孫である。

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太田康資

兄に太田景資(おおた-かげすけ)がいるが庶長子であったため家督は継げなかったようだ。
なお、弟に太田輝資がいる。

1547年7月24日に父・太田資高が死去すると、家督を継いだ太田康資が約2千貫で江戸城代となった。

北条氏康から偏諱を賜って康資と名乗り、北条氏康の養女(遠山綱景の娘・法性院)を正室に迎えると、太田駒千代、太田重正が生まれたとされ、太田駒千代は北条家へ人質として出された。

1554年、駿河に侵攻した武田信玄の家臣・原虎胤を撃退するなど、太田康資は武勇を誇った武将だったようだ。
しかし、恩賞に不満を抱いたのが、江戸城の城主になれなかったことを不満に思ったのか、1562年、一族の太田資正を通じて上杉謙信に寝返りを画策したが失敗。
1562年10月、太田康資は大田資正の元へ逃亡した。
このとき、人質であった子の太田駒千代は自害したようで墓所が存在する。

そのため、北条氏康は1563年から武蔵・松山城や岩付城を何度も攻撃したため、上杉謙信は里見義堯に救援を要請した。

小弓公方・足利義明の北条攻めに同乗する形で、里見義堯の嫡男・里見義弘を総大将とする12000の大軍が国府台城に入ると、単独で迎撃は無理と判断した千葉胤富は北条氏康に援軍を求めた。

北条勢20000は葛西城に入り対峙したが、遠山直景、富永直勝らが先行し、江戸川の矢切の渡し付近を渡河し、1564年1月7日に国府台を攻撃し、第二次国府台の戦いに発展する。

この時、里見勢は迎撃に成功して、遠山綱景と富永直勝、舎人経忠(舎人源太左衛門経忠)らを討ち取り、新年早々の初戦の勝利に気をよくした里見義弘は、兵に酒を振舞ったと言う。

しかし、主力は健在だった北条勢は、一旦、退くと見せかけて、1月8日未明に反転し、江戸川を渡ると里見勢へ夜襲を掛けた。

酒宴後の里見勢は大混乱となり、土岐為頼が戦線離脱。
15歳で初陣だった里見弘次(里見越前守弘次)や、筆頭家老・正木信茂(正木大膳)らが討死し、里見勢は敗走。太田康資や太田資正も里見勢と共に安房へ敗走した。

太田康資は、その後、里見家で客分となったようだが、太田資正は上総の酒井胤治の支援で5月になってから本拠地の岩槻城に戻っている。

しかし、太田資正の子・太田氏資が、父と不仲だったこともあり、北条氏照の息のかかった太田資正の継室・大石定久の娘らと、太田氏資の弟・梶原政景らを幽閉し岩付城を占拠し北条氏康に降伏。
そのため、太田資正(太田三楽斉)は娘婿の成田氏長、宇都宮氏と頼ると、最終的に常陸の佐竹義重の家臣に加わった。


安房に逃れていた太田康資のその後の動向は諸説ある。

太田資正と共に佐竹を頼ったとも、里見家の家督争いである1581年の正木憲時の反乱の際、正木憲時に加担し8月23日に小田喜城で自害したともされ、この場合享年は51となる。

なお、徳川家康が寵愛した側室・英勝院は、太田康資の娘・お梶(お勝)とする説がある。

この英勝院の兄とされる太田重正の子・太田資宗を英勝院は養子に迎えて、徳川秀忠に出仕させ徳川家光の時代に浜松藩3万5千石となり、太田家を復興させている。

岩槻城主・太田資正と太田氏資もあります
上田朝直と武蔵・松山城の歴史~上杉/武田/北条/豊臣と何度も攻撃された松山城
伊豆・丸山城と富永山随(富永左兵衛尉)の伝説
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