原虎胤~鬼美濃と恐れられた武田家の猛将

原虎胤とは

原虎胤(ハラ-トラタネ)  1497年~1564年3月11日

元々、原虎胤の先祖は下総・千葉氏の名門・原氏である。
桓武平氏平高望から18代目の原下総介氏胤が下総国千葉郡原郷に住み、原氏を称したと言われている。
原虎胤の父である原友胤(原能登守友胤、原胤信)の時代には、千葉氏重臣として臼井小弓城主(千葉市)を父・原友胤が任されていたが、原虎胤の祖父・原胤房の没後、1517年10月14日、足利義明が真里谷氏と共に小弓城を攻めた小弓合戦で領地を追われ、もはや千葉氏にはそれを回復する力なく、親子で甲斐・武田信直(のちの武田信虎)を頼った。
なお、千葉氏一族の原氏や、武田に仕えた原氏は、いくつかの原氏があり、それぞれ出自が異なるので注意が必要だ。


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父・原友胤は足軽大将として武田信直に召抱えられ3000貫を領した。この時、原虎胤は17歳で、武田信直より3歳年下であったと考えられる。
原虎胤と父・原友胤が武田氏に仕官した頃、甲斐は郡内・小山田氏と和睦し平穏であったが、武田信直は甲斐をまだ統一できておらず、3000貫と言う知行が仕官した最初からであれば、かなりの高待遇である。
武田信直は、駿河・今井氏親に内通して頑強に抵抗した大井信達の甲斐・上野城(上野椿城)を1515年に攻撃。その際が原虎胤の初陣とされている。父・原友胤(没年不明)の亡きあとにも原虎胤は活躍し、武田家中での地位を確かな物にしていった。
1518年(1520年とも)大井氏は武田信直の正室にと大井夫人(名前不明)を差し出し、武田氏と大井氏は和睦する。

1521年11月23日、飯田河原の戦いでは、今川勢15000、武田勢2000とも言われ、武田勢は苦戦するが、原虎胤が今川氏の総大将・福島正成を討取るなど多大な功績を上げた。 武田信直が武田信虎と1521年に改名したあとだと考えられるが、武田信虎から「虎」の字を与えられ原虎胤と称し、美濃守を賜っている。なお、幼少時代の名は不明である為、この章では千葉家臣時代から原虎胤と記述していることをご理解願いたい。

1541年に武田晴信が武田家督を継いでからも、原虎胤は豪傑として「鬼美濃」と呼ばれ、各戦線で活躍。原虎胤の武勇は諸国でも恐れられており、敵兵は鬼美濃と聞くだけで逃亡することもあった。 特に城攻めに長けていたとされており、原虎胤の落とした城は修理がいらないと言われるほど、やすやすと城を落としていたようだ。
1541年(45歳)の時には足軽大将に昇進し3000貫。騎馬30騎(35騎とも)、従兵100人の軍勢を率い武田軍の中核を担った。
1550年、砥石城攻めでは城攻めにあたり検分役もしている。
1551年10月、弱体している小笠原長時の残党攻略の際、原虎胤は馬場信房・飯富の応援を得て、小笠原長時一族の平瀬城主・平瀬八左衛門を4日間で攻略。その後、武田信玄より平瀬城主を命じられている。
1553年12月、12月 日蓮宗・浄土宗間の勢力抗争が起こると、原虎胤は浄土宗を支持したが、それが一宗一派に属してはならないという武田家臣の法律である「甲州法度之次第」に抵触した疑惑により、武田信玄から追放処分を受けた。
そして、相模・北条氏を頼り小田原へ出向く。
北条氏康は「渡辺綱(源頼光の四天王)に勝る」と大歓迎して迎えた。
1554年2月、北条と今川が富士郡・梶間(賀島)で戦いとなった際には北条方としていつもの兜を被り参戦するものの今川勢が勝利を収めている。
善徳寺の会談以後、武田信玄から復帰を求める書状が届き、原虎胤は甲府に帰還している。
これは、1554年2月に三国同盟により北条氏とも武田が縁組となった為、恩赦と言う形で武田信玄に許され、北条氏康も帰還を許したともされている。また、別の説では北条家に居た期間は4年間とも言われている。
1559年2月12日、武田晴信が出家し武田信玄と改名した際には、今福浄閑斎真田幸隆らと共に剃髪し清岩と号した。
1561年6月7日、上杉謙信小田原攻めの隙をついた、信濃国境の要衝・割ヶ巌城攻略の戦で大きな負傷を負ったとされ、以後、武田の戦に原虎胤の名は見られなくなる。
同年1561年9月10日の第4次川中島の戦いの際には、傷がまだ癒えていない事と老齢を理由に、甲斐の留守部隊を預かっていた。


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それから数年後の1564年3月11日、躑躅ヶ崎館近くの屋敷にて病死。享年68。
生涯の出陣38回。感状38通(うち9通は北条家より)。全身に受けたキズは53箇所と言う。
情にあつい武将としても知られ、合戦場で傷つき倒れていた敵将を見つけると、自ら肩を貸し敵陣まで送り届け、再び戦場でお目にかかろうと温情ある行動は有名である。後には横田高松、多田満頼、小幡虎盛山本勘助と並び、武田信玄初期の「甲陽の五名臣」として称された。
原虎胤が病死した翌年、武田信玄は馬場信房に美濃守を名乗るようにと命じ、馬場信房は馬場美濃守信春(馬場信春)と改名した。
馬場信春は小幡虎盛から軍略を学び武田信玄、そして武田勝頼を支え、原虎胤に劣らない人物になり、1569年の三増峠の戦いなどに参戦し活躍する。

鬼の眼にも涙

甲陽軍鑑の記述によると原虎胤が小田原に身を寄せていた1554年、北条と今川と富士郡・梶間(賀島)で戦いとなり、北条方としていつもの兜を被り参戦した際の話で逸話が残っている。
この時、武田は今川と同盟しており、小幡虎盛・馬場信春・小山田弥三郎(小山田信茂)ら400人余兵を今川勢の援軍として出していた。
原虎胤は物見の小幡虎盛と言葉を交わし、馬場信春の備えはそのままにして、小山田弥三郎(小山田信茂)の備えに攻撃を仕掛けようとした。
小山田弥三郎は兜の立物で原美濃守とすぐに分かったので「美濃守殿の敵前での馬の乗りようをよく見よ」と部下に言って、原虎胤からの仕掛けに乗らなかった。
そこへ近藤という武田勢の浪人が名乗り出て、原虎胤に馬を寄せ斬りつけた。原虎胤は外しておいて刀を抜き、峰打ちで近藤の兜のしころはずれを叩き落馬させた。
すると原虎胤のうしろにいた相模・北条勢の武者が、馬から下りて浪人の首を取ろうとした。原虎胤はその行為を止めさせ「甲州で我らの所にも出入りしていた親しい者だ。許してやってはくれぬか」と言ったと言われている。相模・北条勢の武者も原虎胤の頼みなので首を取るのを止め、二人は揃って引き上げた。「鬼美濃と恐れられる、鬼の眼にも涙」として敵味方で評判になった逸話である。

原虎胤の子孫たち

原虎胤の長男である原彦十郎康景は、やはり甲斐に来て武田信虎の家臣に取り立てられていた足軽大将・横田高松(よこたたかとし)の娘を妻にし、横田高松の婿養子となり横田家に入り、横田康景と改名していた。
1540年の16歳の時が初陣とされ、22歳までに感状を5通所持と実父・原虎胤同様勇猛果敢な武将に育ち、城意庵と共に武田軍中第1級の猛者と言われた。1550年10月01日、村上義清の砥石城攻めでは、しんがりを努めた横田高松と行動を共にしていたと考えられ、4カ所の傷を負いながらも楽岩寺勢の物頭を討取った。その砥石崩れにて横田高松が討死し、騎馬30、足軽100人持ち足軽大将として、横田家の名跡を継いだ。1575年5月21日、長篠の戦いで討死。
子には横田尹松がおり、妻には武田家臣・山県昌景の娘を迎えている。武田家滅亡後は徳川氏に仕え9500石を領した。

原虎胤の次男・原甚四郎盛胤は1570年、同輩の諸角助四郎と喧嘩し、知行・同心召上げ。長篠の戦いで戦死。

原虎胤の4男(3男とも?)である原重胤は武田滅亡徳川家康に仕える。子孫は一時、徳川忠長の改易に連座し追放されたが、1638年に200俵を賜って旗本として復帰が許されている。

原虎胤の娘(名前不明)は、初鹿野忠次の正室となった記録もある。


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なぜ、甲斐・武田氏を頼ったのか?

千葉氏家臣を離れた原氏は、なぜ武田信直が召抱えたのか?
原氏と同じ秩父氏の流れである郡内・小山田氏がちょうど武田氏と和睦したばかりであり、遠縁にも当たる小山田氏に仲介を頼み、武田氏に仕官したとも考えられる。

武田信玄についてはこちら
横田尹松とは~高天神城の生き残りで徳川家では使番となった武田家臣
生実城の解説(北小弓城) 原胤清・原胤貞・原胤栄【足利義明の小弓御所】 
高野山・奥の院にある武田信玄・武田勝頼の供養碑

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