今福友清 今福浄閑斎とは





今福友清(いまふく-ともきよ)は、戦国時代の武将で、甲斐・武田氏の譜代家臣となります。
別名は、今福長閑斎(今福浄閑斎)とも書きます。

今福友清(いまふく-ともきよ)は、武田一族の譜代家老衆で、狩谷原城主であったとされますが、戦歴など詳しい事は不明です。
なお、出家したあとは公事奉行を務めたとされます。
今福友清(今福浄閑斎)の嫡男は今福虎孝(今福丹後守虎孝)で、次男は今福友久(今福丹波守友久)です。

1561年、川中島の戦いでは嫡男・今福虎孝が出陣しているため、その頃にはすでに隠居していたものと推測されます。
しかし、1571年、板垣信安が死去すると、その後任として、今福友清(今福浄閑斎)と子である今福虎孝(今福丹後守虎孝)・今福友久(今福丹波守友久)が、久能山城に入り兵350、馬上40騎にて守備しました。


1573年、今福浄閑斎は遠江・諏訪原城の城番を命ぜられましたが、武田勝頼長篠の戦いに敗れた後、1576年に徳川家康が諏訪原城を攻め落とした際に討死したとも、1581年に病没したともされています。
ただし、諏訪原城には今福友清の墓があります。

また、今福丹波守は久能山城に退却したとの記述も見られ、父・今福友清(今福浄閑斎)、嫡男・今福虎孝(今福丹後守虎孝)、次男・今福友久(今福丹波守友久)が久能山城と諏訪原城で混同されているようで、とてもややこしく、動向や生死がよくわかりません。

くわえて、最近では今福長閑斎が正しく、今福浄閑斎と言う記述は誤りだとされています。

織田信長の甲斐攻めの際である1582年2月27日に、徳川家康が持舟城を落とすと、久能山城も徳川勢に包囲され3男・今福昌和が討死しています。
また、久能山城の麓に今福虎孝(今福丹後守虎孝)の墓がありますので、討死した可能性があります。

そのため、今福友久(今福丹波守友久)は開城して甲斐へと逃れたとも、自刃したともされます。
なお、生き残った養子の今福昌常と孫・今福友直は徳川家に仕えました。


久能山への行き方やその他の写真などは下記のページにて別途詳しくご紹介させて頂いておりますので、あわせてご高覧賜りますと幸いです。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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