平高望(高望王)の解説~高望王流桓武平氏の租

平高望(高望王)

平高望(高望王)とは

平高望(たいら の たかもち)は、平安時代中期の賜姓皇族で、高望王と書く場合も多くあります。
生没年は806年?生まれで、没年は911年?ともされますが、諸説あるため、不明と表現するのが適切です。
父は、葛原親王の第3王子・高見王、または葛原親王とされ、母は橘春成、または仲野親王の娘、藤原是雄の娘と考えられます。
異母兄は高棟王(公家平氏の祖)・善棟王(同じく公家平氏の祖)。
同母妹は丹姓・平直良の妻。


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平高望(高望王)の正室は、藤原良方の娘で、側室は藤原範世の娘とされます。

889年5月13日、宇多天皇の勅命にて、平朝臣を賜与され臣籍降下し、高望王は平高望と称しました。
その後、898年、平高望は上総介になっています。

家勘文録(へいけかんもんろく)によると、民部卿宗章(みんぶきょうむねあき)朝臣(実在は不詳)の謀反にて、討伐の功績があり、上総介の任官に繋がったとされます。

上総介(かずさのすけ)という意味は、上総国(千葉県)の国司の次官という、No2の官職名になります。
826年以降、上総国のNo1は、上総太守(任国親王)と言う役職になります。
通常、上総守など「守」と言ったり「国司」と言う名称が使われるのですが、826年から常陸国・上野国・上総国に限っては、最高位の皇族男子である親王が国司を務める親王任国でした。
当然、親王は京から離れませんので、実務上の最高位は次官の介(すけ)になり、国府の実質的長官は上総介がNo1であると言う事になります。

898年、上総介となった高望王(平高望)は、正室・藤原良方の娘が産んでいた、長男・平国香(たいら の くにか)、次男・平良兼(たいら の よしかね)、3男・平良将と共に、千葉に赴任しました。
武射郡(山武市)を本拠にしたと考えられ、横芝光町には「屋形」と言う地名が残っています。


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そして、京から任地に赴任しても、6年ないし4年で、交代になって京に戻ったり、別の所の介に、任じられたりします。
ところが、平高望(高望王)らは、京に戻っても、良いことはないと考えたのでしょう。
そのまま上総に残りました、
嫡男・平国香(たいら の くにか) は、真壁の源護の娘、下野大掾・藤原村雄の娘、家女房などを妻にして、常陸国へ勢力を伸ばしてきました。
平高望の娘も、下野大掾・藤原維幾に嫁いだとされます。
平国香は、常陸国真壁郡東石田、常陸・石田館に本拠移したようです。
平国香の没年は、935年2月とされます。

次男・平良兼(たいら の よしかね)は、源護の娘を、継室にしたとありますが、これは後年のようで、当初は父・平高望の遺領である武射郡の屋形を継いだようです。
平良兼の娘は、平良将の子・平将門に嫁いでいます。
平良兼の没年は、939年6月とされます。

3男・平良将(たいら の よしまさ) は、県犬養春枝の娘を妻にすると、下総国・豊田郡を本拠にしたようです。


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5男・平良文(たいら の よしふみ)の母は、側室である藤原範世の娘(藤原師世の娘とも?)とされます。
母が側室だったため、父が下向する際に、連れて行って、もらえなかったとされていますが、平良文は、886年3月18日に京で生まれたともあるため、まだ、幼少だったので、側室の母と京に残ったものと推測致します。
しかし、その後、父から呼ばれていない事を考慮すると、一緒に行かなかったと言うよりは、関東に呼ばれなかったと言うのが正しいでしょう。
ところがね923年、平良文(36歳)は、醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅令を受けます。
この相模の賊と言うのは、どんな相手だったのかは不明だ。

相模・村岡城の築城は923年とされ、平良文は村岡五郎と称していることから、相模国高座郡村岡郷(藤沢市村岡東)を本拠としました。
ただし、武蔵国大里郡村岡郷(熊谷市村岡)が、本拠とする説もありますが、940年には、藤沢の宮前御霊神社と渡内日枝神社を創建し、翌941年には、藤沢の川名御霊神社を建てたと伝わります。
また、平良文の墓所は、藤沢市渡内の二伝寺で、裏山に、平良文、平忠光、平忠通と3代の塚が残ります。

ただし、939年4月17日、平良文は、陸奥守・鎮守府将軍として、胆沢城に入るなど、活躍があり、加増を受けたようで、他の領地としては、下総国結城郡村岡(茨城県下妻市)、千葉県東庄町の大友城、香取市にも居館を構えたと言います。
晩年は、下総国海上郡から阿玉郡へ移ったようで、952年12月18日に死去しました。享年67。

他には、平高望の子、もしくは平良持の子として、平良正(たいら の よしまさ)が、常陸・水守城を本拠として、源護の娘を妻にしています。


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以上のように、平高望(高望王)以降の高望王流桓武平氏は、常陸・上総・下総にて荘園を開発し、勢力をつけると、武士団を構成し基盤を固めました。
土肥氏・秩父氏・北条氏などの坂東平氏とと発展したほか、伊勢平氏の平清盛戦国時代の伊勢盛時(北条早雲)も平高望(高望王)の子孫と言う事になります。
相模・村岡城に入り、平良文からは、千葉氏、上総氏、中村党、秩父氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏、三浦氏、梶原氏、長江氏、鎌倉氏も出ています。

戦国時代の織田信長がなんで「上総介」を称したなどの理由としては、「上総守」「上野守」の官職は、その時代の最高指導者の子にしか許されなかった慣例からと考えられます。

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