黒田重隆と黒田職隆とは~黒田家廟所


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黒田職隆の父・黒田重隆(くろだしげたか、1508年~1564年2月6日)は、若いころ、備前の福岡(現在の岡山県長船町)に在住していたと伝わる。
その後、群雄割拠する播磨にこそ出世の好機があると考えたのだろう。
播磨に移住した黒田重隆は広峯神社の御使と組んで、家伝の「玲珠膏(れいしゅこう)」と言う目薬の製造・販売を行った。
薬の効能の上に神様の御利益までついていると言う事で、売れに売れて、得た財を低金利で貸付け、たちまち土豪として成長し、播磨の国人になった。
※兵庫県黒田庄町黒田において従来の説と異なる「黒田氏系図」が発見され、黒田氏はもともと播磨国の一土豪であったのではないか?とする説もある。

黒田重隆は、竜野城主・赤松政秀に仕え、小競り合いを続けていた近隣の地侍たちも、黒田氏を主君とあおぎ、臣従するようになっていった。
当時、西播磨には赤松氏一族の小寺政職御着城で威勢を振るい、衣笠・上月・宇野氏らが誼を通じていた。
しかし、香山城主・香山重道だけは、しばしば小寺氏の領地に侵攻していた為、小寺政職に黒田満隆は香山重道の首を挙げたら家臣に加えてもらえるか?と打診したところ、小寺政職はこれを快諾したと言う。
こうして、1543年12月、黒田満隆は竹森以下の郎党を率い、夜陰に乗じて香山重道を不意打ちし、その財宝を小寺政職に献上した。
これに、小寺政職は香山氏の領地のほかに、更に四十町歩の所領を黒田満隆ら与え、黒田職隆は、父・黒田重隆と共に御着城主の小寺政職に仕えた。
1545年に黒田職隆は、小寺政職の養女(明石宗和の娘)を娶って、小寺家の家老に列せられると共に「小寺の姓氏」を与えられ、小寺職隆と称した。
ほどなく御着城主・小寺政職は、黒田氏を更に厚遇し、小寺氏が代々が城主をつとめた要衝・姫路城の城代に就任させた。のちに豊臣秀吉の軍師として活躍する黒田官兵衛が1546年に姫路城で生まれている。
ちなみに、この小寺姓は、子に当たる黒田官兵衛も、有岡城で牢獄に捕えられ、帰還するまで、小寺姓を名乗り続けていたが、このページでは黒田姓に統一して記載したい。

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黒田職隆(くろだ もとたか)は、黒田重隆の子として、1524年に誕生した。
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」においては、正室は 岩(お岩)で、後妻は ぬい としている。
弟に黒田休夢がいる。
なお、黒田職隆以外の子は以下のとおり。
 
小寺高友(1525-1592?)
通称千太夫、号休夢、秀吉の御伽衆を務め、1584年頃の茶会にも招かれた。九州征伐に従軍するほか、文禄の役でも肥前名護屋で茶会にも参加。
 
井手友氏(1538-1569)
1569年の赤松政秀との戦い「土器山の戦い」で討死。

松井重孝(1548-1600?)
母方の伯父松井宗元の養子となり、大和国に住み、妻子に先立たれて黒田家へ戻る。

黒田官兵衛の父である黒田職隆は天性、慈悲に富み、また義理を知る人物であったとされ、姫路城の城代に就任すると、百間長屋を建てて貧しい者や下級武士・職人・行商人などを城下に住まわせて、配下に組み入れたり、諸国情報収集に活用した。

1559年、黒田職隆の正室・小寺政職の養女(明石宗和の娘)が死亡。
1562年、黒田官兵衛が、小寺政職の近習となり、黒田職隆・黒田官兵衛親子は土豪を征伐もしている。
1564年には、龍野城主・浦上政宗の子・浦上清宗と自分の娘の婚姻を実現させるが、その婚礼当日の宴席中に、赤松政秀(宇野政秀)の奇襲で浦上政宗・浦上清宗と共々、娘も殺害され、黒田職隆は赤松政秀と対立した。
1567年頃、息子の黒田官兵衛 (黒田孝高・黒田如水) に家督を譲り、黒田官兵衛は小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光姫を正室に迎え、姫路城代となった。
黒田職隆は、姫路城の南東に位置する国府山城(こうやまじょう)に隠居したが、その後も重大時には、黒田官兵衛に協力していることが伺える。
 
1569年、兼ねてより対立していた赤松政秀が、足利義昭を抱える織田信長に属した池田勝正、別所安治、宇喜多直家らの支援を受け、姫路城に3000の兵を率いて攻め込んだ。
その際、黒田勢は姫路城から討って出て迎撃したが、危機に陥った黒田官兵衛を救援する為、黒田職隆自身も出馬して勝利に貢献。三木通秋の援軍などもあって赤松政秀を撃退した。(青山・土器山の戦い)
直後、赤松政秀は浦上宗景に攻められ降伏している。

1576年、織田信長の軍勢が播磨にも迫り、西からは毛利氏と大勢力が迫って来ると、黒田氏は小寺政職に進言し、小寺政職は織田信長に従った。
しかし、三木城の別所長治の毛利方への寝返り、1578年には、有岡城主・荒木村重の織田家に対する謀反に小寺政職は動揺し、黒田官兵衛の言も聞かず織田信長に背き、毛利氏と通じた。
黒田官兵衛は荒木村重説得の為、有岡城に入ったが捕縛され牢に入れられてしまう。
当主・黒田官兵衛が捕えられ、音信不通になったが、この時、黒田官兵衛の重臣7名が連署で主が不在の間は黒田職隆の命に従う事を誓った書状を。黒田職隆に送っている。
こうした要請に応じて、黒田職隆は、黒田官兵衛が戻るまで間、黒田家当主の座に復帰し、織田家より離反した小寺政職と対抗し、織田家・羽柴秀吉に変わらず味方する姿勢を示した。


1580年、織田信長の嫡男・織田信忠が小寺政職の御着城を攻略。小寺政職は毛利氏の吉川元春の下に逃げこんだが追い出され、1582年に備後の鞆で没したとされる。
小寺政職が逃亡した際、黒田職隆は小寺政職の子・小寺氏職を密かに引き取って養育し、小寺氏職はのち、黒田氏の家臣に登用されている。
その清廉で忠義一徹なところを羽柴秀吉にも賞賛され、後に黒田職隆は姫路城の留守居を任された。
1585年8月22日、黒田職隆は62歳で死去。

黒田家廟所(黒田重隆の墓)

 姫路の御着城の一角に「黒田家廟所」があり、黒田重隆と正室・明石氏の娘が供養されています。

黒田家廟所

 これは福岡藩主・黒田家が、江戸時代の1802年に建立したもので、今でも小寺家とその家臣らを祀る小寺大明神と共に、毎年4月、黒田家と小寺家、天川家(小寺家の子孫)の関係者が集まって法要が営われている言います。

黒田家廟所

 黒田家廟所の場所ですが、御着城公園の北西に入口があり、人が通行できる通路を進むと、その先に黒田家廟所があります。

黒田家廟所への入口

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