鵜殿長照と人質交換となった鵜殿氏長とその弟である鵜殿氏次





鵜殿長照(うどの-ながてる)は上ノ郷城主・鵜殿長持の子で、母は今川氏親の娘ですが、生年は不明です。
鵜殿家は今川義元に従っており、1560年5月の桶狭間の戦いでは、2000の将として大高城の防衛に貢献しています。
この時、大高城を守り抜いたのは鵜殿長照とされており、飢える城兵を鼓舞したと伝わります。
そして、今川家に命じられた松平元康は兵糧を大高城へ入れることにも成功しています。
しかし、今川義元が討死すると鵜殿長照は松平元康よりも早く三河に帰ったと言われています。



なお、父・鵜殿長持が死去した時期は、1557年9月11日と1562年の2説ありますが、その時、家督を鵜殿長照が継いだと考えられます。

松平元康(徳川家康)が岡崎城にて独立の動きを示すと、三河の武士の多くは今川家を見限って松平家に協力しますが、鵜殿長照は忠節に今川氏真に従いました。

そのため、1562年、松平元康から上ノ郷城は攻撃されます。
最初、松平清宗などは撃退しますが、松平元康が自ら出陣して名取山に陣を張りました。
そして、甲賀衆が城内に火を放ったあと総攻めし、1562年2月4日、父・鵜殿長持と共に鵜殿長照は討死したとされています。

なお、鵜殿長照は上ノ郷城から逃れたものの、蒲郡・安楽寺の脇にある坂で、伴資定に討たれたともされます。
この坂は鵜殿坂と呼ばれており、この坂で転ぶと怪我は一生治らないという言い伝えがあります。

この上ノ郷城の戦いの際に、子の鵜殿氏長鵜殿氏次が捕らえられ、駿府で人質となっていた徳川家康の妻・瀬名姫(築山殿)と、嫡男・松平信康、長女・亀姫らとの人質交換が行われた。
人質交換を担当したのは、石川数正とされています。

その後の上ノ郷城は、攻撃の際に戦功もあった久松俊勝に与えられ、のち子の松平康元に引き継がれています。

鵜殿氏長

鵜殿氏長(うどの-うじなが)は1549年生まれですので、人質となった際には、まだ14歳くらいと考えられます。
松平家と今川家の交渉は成立して人質交換となり、弟・鵜殿氏次(うどの-うじつぐ)と共に命も救われたわけですが、故郷の上ノ郷城は松平家の手に落ちましたので所領を失いました。
そのため、2人は、二俣城の松井宗恒の許に身を寄せています。

それも束の間、1568年に武田信玄が二股城を攻めため、鵜殿氏長(鵜殿三郎)も抵抗したようですが敗北し、松井宗恒と共に徳川家を頼りました。

以後は、徳川家の家臣として活躍し、1570年の姉川の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦いにも参じました。

天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原攻めにて徳川家康が江戸城に入ると、鵜殿氏長は徳川家の旗本となっています。

1614年からの大坂の陣では御使番を務めた功で1700石となっています。


弟・鵜殿氏次は、二股城が陥落したあと、深溝城主・松平家忠へ預けられたのち、松平家忠に仕えました。
しかし、、関ヶ原合戦の前哨戦である伏見城の戦いにて、松平家忠が伏見城を任された鳥居元忠の副将として入ります。
それに同行した鵜殿氏次は、石田三成らの大群の攻撃により、討死しました。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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