商業と文化と水の都・大阪の礎を築いた松平忠明と安井道頓

大阪の町は夏の陣で灰儘と化したものの、為政者と庶民の力によって活気ある商業の街として再生を果たす。その中心的な役割を担ったのが、大阪城主に就任した松平忠明と、縦横に流れる堀川の掘削事業に生涯をかけた安井道頓である。

◆秀頼亡き後の大阪城主に就任

松平忠明は、徳川家康の外孫である。家康の娘・亀姫と徳川家重臣・奥平信昌との間に生まれた。
伊勢亀山藩5万石の城主だった彼は、冬・夏ともに大阪の陣で活躍。その功が認められ、大阪城主となり、10万石の大名に封じられた。

大阪は、秀吉恩顧の家臣たちの所領がひしめく地域。豊臣家は滅んだとはいえ、徳川家に対する反感は根強い。そんな危険な領地の統治を任せられたわけだから、いかに忠明に対する家康の信頼が厚かったかが分かるだろう。
城主は忠明一代のみで、その後は城主制度が廃止されて大坂城代が置かれることになる。役職としては、京都所司代に継ぐ関西における幕府の重要職であった。大坂の東西奉行と堺町奉行を監督する権限を持ち、関西三十余国の大名を監視する役割も併せ持つ。
ちなみに、大坂の東西奉行に対し、江戸の行政と裁判を管掌する機関は南北奉行といった。
忠明に与えられた使命は、大阪の治安維持の他、夏の陣によって壊滅状態となった町の復興である。忠明は、徳川の権威に奢ることなく、庶民目線の優しい立場で大阪の街の復興に取り掛かった。
まずは制度改革。総年寄と年寄を任命して役割分担を決め、広く庶民の声が反映されるような組織を作った。
また、道路の整備事業にも着手した。新しく整備した南北の通りを筋、東西に伸びる道を通りと命名した。これは風水の原理に基づくもので、方角によって分けられた道の名称は現在でも使われている。
南に流れる長堀川に心斎橋を設け、市街地としての利便性向上を図った点も見逃せない。これにより、船着き場と荷揚げの拠点として重要な役割を担った船場町の復興と整備が急ピッチで進み、被災で逃れていた大坂町民の足が徐々に戻ってくる。復興には、行政だけでなく、商人や町民も積極的に参加したというから、忠明がいかに庶民に慕われていたのかが分かる。
元三の丸があった場所に伏見の町人を移住させて市街地を作ったのも忠明の功績である。京町堀・江戸堀を開き、道頓堀の掘削事業を完成させた。その他、寺院や墓地の整理を行い、戦災で傷ついた大阪町民の心を労わることも忘れなかった。
元和五年、忠明は大和郡山に移封され、石高も12万石に加増された。忠明が大和に移った後は、伏見城番内藤信正が城代に任じられ、忠明の復興計画を引き継いだ。
忠明が大阪城主を退いた元和五年以降、徳川幕府による大阪城の大規模改修工事が行われた。石垣櫓を含む工事普請には、関西の諸大名が駆り出され、本丸と二の丸、三の丸の一部工事が家光の時代の寛永五年ごろまで行われた。秀忠時代の工事全般の修築奉行は藤堂高虎、家光に引き継がれてからは戸田氏鉄らが務めた。
大阪城の改築と城下町の整備は家光の代にほぼ完成。しかしその基礎を築いたのはいうまでもなく大阪で善政を敷いた忠明であった。

◆道頓堀川の掘削に貢献・安井道頓

安井道頓の祖は、名門・畠山氏から出たといわれる。安井主計という武将がいて、織田信長の家臣・佐久間信盛の部下を務め、石山本願寺との戦いで戦死したという。道頓はその安井主計の息子もしくは孫と思われる。
信長の死後、道頓は秀吉に仕え、大阪城の外堀開削に功績を残す。湿地帯として荒れていた大阪城の南が城下町として生まれ変わるには、河川を取り込む大がかりな掘削工事が必要と提言。秀吉に認められ、私財を投じて城南地域の水路工事に取り掛かった。
しかし、工事の途中で大阪夏の陣が勃発。秀頼とともに大阪城内にいた道頓は、最後は武士として立派な討死を遂げた。
その道頓が果たせなかった事業を引き継いだのが、松平忠明であった。志半ばで倒れた道頓の意志を受け止め、忠明は完成した川に道頓堀川という名前を付けた。

(寄稿)Tさま

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