松平清康 25歳で家臣に殺害されるも短期間で三河を平定した徳川家康の祖父

松平清康




松平清康(まつだいらきよやす)は、安祥松平家の第7代当主として三河に勢力基盤を築いた戦国時代の武将です。
徳川家康の祖父であり、松平氏が「徳川」になるきっかけを作った人物でもあります。
12歳で家督を継ぎ、わずか10年程で山中城岡崎城を攻略し、三河を統一し勇名を謳われます。
しかし、家臣に殺害され25歳で生涯を閉じることになります。
徳川家康が天下をとるための基礎固めを行った松平清康の生涯をご紹介します。


12歳で家督相続

松平清康は、永正8年9月(1511年9月)に安城松平家6代当主・松平信忠と母・大河内氏との間に嫡男として生まれます。
父である松平信忠について『三河物語』は、
・不器用者(統率者としての器量の無い者)
・「武勇・情愛・慈悲」のいずれも信忠には備わっていなかった
とし、暗愚・強情な人物と評価しています。

このような父であるためか松平清康の少年時代、家督は松平信忠にありましたが、祖父の松平長親(道閲)が後見・補佐をしていました。
しかし父の補佐を受けても、一門である松平党や家臣団を統率することがうまくいっていなかったようです。
この状況に堪えかねた家老の酒井忠尚(将監)は、松平信忠の隠居を嘆願。
大永3年(1523年)、嫡子である竹千代がわずか12歳で家督を相続することになります。
竹千代は三河の権威である吉良氏の吉良持清の偏諱を受けて最初は清孝のちに清康と名乗ります。

武力により三河を掌握

家臣団の支えの元、松平清康の三河平定戦が始まります。
『常山紀談』で、「善徳公士卒をあはれみ、勇材おはしませしかば、人々其徳になびき従ひ奉れり」と称された松平清康。
14歳から25歳までの短期間に戦を繰り返し三河を統一し、隣国の尾張にまで攻め入る勢いをみせました。


まずは大永5年(1525年)、家督を継いだ2年後(14歳)のこの年に足助城の鈴木重政を攻めて降伏させています。
大永6年(1526年)には、岡崎松平家の攻略に着手します。
家臣の大久保忠茂の進言に従い、要地・山中城を計略で陥落させます。
その上で、岡崎城の松平昌安(西郷信貞)に降伏勧告。
城を開城させ、岡崎城を手中におさめます。
この後、松平清康は本拠地を岡崎城へ移したとされています。
享禄3年(1530年)、松平昌安の居城であった旧岡崎城は破棄、現在の龍頭山に新しく城を築き拠点としました。
「統治者」が変わったことを印象付ける目的があったとされています。
松平清康は、岡崎の開発に力を入れ、

・城下町の整備
・統治制度の整備(岡崎五人衆・代官・小代官体制の設置)
・寺社の修築、創建
・安城からの寺社の勧請、移築

等を行います。

享禄2年(1529年)、上記の岡崎の開発を進めながら尾島城を攻略。
西三河の勢力基盤を盤石にさせたのち東三河に目を向けます。
まずは、三河牧野氏の今橋城(吉田城)を攻略し、そのまま南方の渥美郡田原に軍を進めます。
そしてこの地に影響力を持つ戸田氏を戦わずに降服させます。
このころになると、三河での松平清康の力は他を圧倒するようになっており、設楽郡の菅沼氏、亀山城の奥平氏、宝飯郡の牧野氏ら東三河国人衆などの多くが従属を申し込んできたと言われています。
しかし、三河の東の端に位置する宇利城の熊谷氏だけが抵抗の姿勢を見せたためこれを武力で攻略。
三河に絶大な影響力を持つことになります。
絶頂を迎えた松平清康ですが、この宇利城攻めの際に、大手門を攻める福釜松平家の叔父・松平親盛が死亡。
桜井松平家の叔父・松平信定の支援が遅れたからだとして本人を罵倒。
二人の関係が悪化してしまいます。これが、松平清康が家臣に殺害された遠因の一つとも言われてます。

清和源氏・世良田氏を称する

三河の平定を進める中で実質的な武力は増大していきますが、この地で影響力をさらに増し、維持するためには権威も必要です。
そこで、当時の三河の権威である三河吉良氏に対抗するため、松平清康は松平氏にどのような箔をつけるか思案します。


着目したのが、清和源氏のひとつ、新田氏一門である世良田姓。
松平氏の先祖の中に松平政親という人物がおり、さらにその祖先に世良田頼氏という人物がいたとされます。
ここで松平氏と世良田氏がつながります。
松平清康は上記を理由に「世良田次郎三郎清康」と称し、権威の裏付けとして世良田姓を利用したとされています。
この時の松平清康の世良田氏の自称が、後年、松平家康が三河守任官を望む交渉を朝廷とする際に役に立っています。

守山崩れ

三河をほぼ統一した松平清康は目を西の織田領に向けます。
当時、斎藤道三と対立していた織田領へ8,000の軍勢で侵攻。
天文4年(1535年)12月、尾張に侵入した松平清康は織田信秀織田信長の父)の弟・織田信光の守る守山城を攻めることになります。
しかしその陣中で突如、家臣の阿部正豊(弥七郎)に惨殺されます。
これには、先の宇利城攻めの際に関係が悪化した叔父の松平信定が暗躍していたとされています。

・松平信定の娘婿が守山城主の織田信光(織田家との結びつきが強かった)。
・松平信忠から松平清康への家督相続時も、松平信定を擁立する派閥があり
 それ以来敵対していた。
・上記のような背景がある中、松平信定は実行犯である阿部正豊をそそのかして殺害させた


諸説ありますが、松平清康は25歳で死去。
この「守山崩れ」をきっかけに松平氏の三河支配が一気に崩れてしまいます。
松平家は弱体化し今川家の傘下に。
嫡子・松平広忠に始まる松平家艱難の時期はここから始まります。

(寄稿)渡辺綱

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渡辺綱

投稿者プロフィール

日本史を中心として、東アジア史全般(中国、朝鮮、満州)に興味あり。 
好きな作家:司馬遼太郎、黒岩重吾、陳舜臣、海音寺潮五郎、今東光、
      吉川英治、山岡荘八、宮城谷昌光

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