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タグ:石田三成
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尾藤主膳~宇多頼忠と宇多頼次とは【真田家や石田家に縁深い武将】
尾藤主膳こと宇多頼忠(うだ-よりただ)の父は尾藤重吉で、兄に尾藤知宣などがいる。初名は尾藤二郎三郎(尾藤久右衛門、尾藤主膳)と称した。 この尾藤家は、もともと信濃・中野牧が本拠で、小笠原長時に臣従していたが、武田信玄に… -
前田利長の生涯【加賀百万石を築き兼六園や北陸文化を残した名君】
前田利長(まえだ-としなが)は、織田信長の家臣・前田利家の長男として荒子城にて生まれた。幼名は犬千代。後に孫四郎、初名は前田利勝で後に前田利長と改めた。 母は正室である高畠直吉の娘(篠原一計の娘)・まつ(芳春院)。 … -
大一大万大吉の意味【旗印】石田三成と石田為久の関係は?(石田為久の墓も)
関ヶ原の戦いにおいて、石田三成は旗印に「大一大万大吉」と記載していたとされる。 元々、石田三成の家紋は「九曜紋」であるが、はて、この「大一大万大吉」とはどのような意味があったのか? この「大一大万大吉」と言うのは… -
毛利勝永と毛利勝信【大阪の陣で義を果たした名将】
毛利勝永(もうり-かつなが)は、毛利勝信の子として1577年に尾張で誕生した。 先に父・毛利勝信(森吉成、毛利吉成)からご紹介したい。 毛利勝信(もうり-かつのぶ)は豊臣秀吉に早くから仕えた古参の武将で黄母衣七騎… -
山中長俊(山中内匠長俊)~優秀な甲賀流忍家の筆頭格
山中長俊(やまなか-ながとし)は、山中為俊の子として1547年に生まれた。 この山中家は、甲賀二十一家である山中氏の庶流・柏木三家の一角だったが、甲賀流忍家の筆頭格であり、六角義賢に仕えた。 学問や文芸に明… -
島左近(島清興) とは~「鬼左近」と称された猛将 島信勝も
島左近(しま-さこん)はの島氏は、島政勝の子として1540年5月5日?に誕生したとされるが、出自については、大和国平群郡ともいわれるが、詳細不明。 なお、島家は奈良の椿井城、大和・西宮城を本拠にしていたと考えられる。 … -
真田於菊とは【真田昌幸の5女で滝川一積の正室】
於菊(おきく)は真田昌幸の5女で、名胡桃城で生まれた。 真田信之・真田信繁らの妹に当たる。生年は不明。 母は側室のお徳。 母・お徳はお菊を身ごもったため、樋口角兵衛によって殺害されそうになる。 … -
鳥居元忠~伏見城で華々しく散り忠義を貫いた三河武士
鳥居元忠(とりいもとただ)は、松平家の家臣・鳥居忠吉の3男として、三河碧海郡渡郷(愛知県岡崎市渡町)にて1539年に生まれた。 幼名は鶴之助、のち彦右衛門と称している。 渡城主の父・鳥居忠吉は松平清康に仕え、のち岡崎… -
山手殿とは【真田丸では薫】~真田家を支えたなぞの女性の出自
山手殿は宇多頼忠の娘という説が有力だが、武田信玄の家臣・遠山右馬助の娘とする説もあり、良くわかっていない。生年は不詳。 いずれにせよ、1564年頃?に、武田信玄の足軽大将・武藤喜兵衛(後の真田昌幸、20歳)の正室となっ… -
戦国伝 石田家 完全攻略 信長の野望「創造」 パワーアップキット
信長の野望「創造・パワーアップキット」での石田家に関する「戦国伝」の内容です。 関ヶ原の戦い シナリオでスタートする場合には「関ヶ原の戦い」にて石田家を選択すると戦国伝がスタート致します。 1600…