島清興(島左近) 謎多き稀代の名将が見せた大和魂

島清興(島左近)

島清興(しま-きよおき)は、天文9年5月5日(1540年)に生まれたとされ、島左近(通称)として知られる、安土桃山時代の武将である。
「鬼左近」とあだ名され、石田三成(いしだ-みつなり)の参謀として采配を振るい、天下分け目の合戦では、左近の采配が戦況を分けたといわれる重要人物であったことがわかっているが、その人生の多くが謎につつまれている。
その不明な点が多い人生や、主君である三成との関係に近づいてみたい。

大和に生まれ筒井家に仕える

左近の生国は、諸説あるなかで大和国説が有力である。
左近は、いつからかは不明だが、筒井順慶に仕え片腕として主君をもりたてていたようだ。
順慶は織田信長に従い、大和国守護に任命され、反信長勢力との争いにあけくれていた。
その中で、左近も兵法を学んでいったのであろうと想像できる。


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順慶亡き後は、筒井定次が跡を継いだが、豊臣秀吉によって伊賀への転封を命じられた後、左近は代々仕えた筒井家を去ることになる。
左近が、政治をかえりみない定次を見限ったといわれるが、真相はよくわかっていない。
筒井家に代わって大和国に入ったのは豊臣秀長であったが、左近はそのまま秀長に仕えおり、秀長亡き後も、その養子の豊臣秀保に仕えたという。
その秀保もまた、若くして世を去ってしまう。
川に入ってのことで、病死なのか自殺なのかわからないが、不可解であった。
大和豊臣家は、秀保の後は跡継ぎは無く断絶となり、左近もまた仕える主君を無くし、代々仕えた大和国の地を去ることになる。

石田三成と出会い仕える

左近が、三成にいつ仕えたかは、よくわかっていないが天正18年(1590年)に書かれた、常陸国の佐竹義宣の家臣宛ての書状が見つかっているため、その内容から少なくとも、その頃には三成の参謀として重要な立場にあったのであろう。
左近に関する文献は少ないのだが、三成に仕官した時からすでに軍事外交の助言、時には三成とって耳の痛い諫言も、積極的に行っていたのではないだろうか。
有名な逸話としては、三成は自らの禄高4万石のうち左近に2万石を与え、破格の待遇で引き入れたという。
三成が水口城主時代(城主であったかは諸説ある)の話であるが、そもそも左近が三成にいつ頃仕官したのかが不明なため、信憑性には欠ける逸話である。
左近は2万石という条件だけで三成の下に付いたのかといわれれば、決してそれだけではないはずだ。
話はさかのぼるが、左近が順慶に仕えていた時に山崎の戦いが起こる。
前述のように、順慶は信長によって大和国守護に任命されているのだが、順慶が大和国守護になる過程に明智光秀の尽力があったといわれる。
光秀が間に入り、ようやく大和国守護が実現したのだ。
光秀は、山崎の戦いで順慶に援軍を要請したが、最後まで応えなかった。
その時左近は、恩に報いない順慶を軽蔑したのではなかろうか。
だが左近は、三成に対しては「仕え甲斐がある義の人物」と、どこかでそう感じたはずである。
三成の旗印である「大一大万大吉」は彼の理念であり、左近はその青臭いまでの純粋さに深く感じ入り、自らを託すべく転身を図った。
仕官の話がいくつかあるなか、敢えて三成に仕官したのは、そういった理由からだったように思う。

秀吉死去後の豊臣政権

秀吉は、前田利家豊臣秀頼の後見を、徳川家康(とくがわ-いえやす)に、豊臣公儀の政務を託し死去するが、その翌年利家も死去することで豊臣政権は、家康の独壇場となった。
象徴的な事としては、禁止されていた大名同士の婚姻を結んだ件は、武断派と三成中心の文治派の間を切り崩しにかかろうとしているのが見てとれる。
朝鮮から帰国してきた大名を中心に、分裂状態の豊臣政権であったが利家亡き後は、その歯止めが効かなくなり、家康の力がなければ収まらない事態になってしまっていた。
そんな家康を危険に感じた左近は、三成に何度か暗殺を進言するが、なかなか受け入れられなかったという。
「豊臣家のため」という大義名分を得ている家康は、加賀征伐や会津征伐という実力行使を繰り返し、(加賀征伐は、前田利長が母の芳春院を人質に差し出すことで決着)豊臣家を二分した争いは、関ヶ原に舞台を移す。


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東軍の西上

上杉景勝を討つべく会津へ向かった家康は、下野国・小山に着陣のさなか、三成挙兵の報が届き、ここで家康は会津征伐の中止を決定し西上する。
慶長5年(1600年)8月1日伏見城を落とした西軍は、10日に美濃国・大垣城に入った。
一方の東軍は、家康が江戸に残り、福島正則らの先鋒部隊が東海道を進み尾張国・清洲城へ向かう。
この時の家康は約1ヶ月間、江戸にいたまま次の手を打てないでいた。
会津・上杉や常陸国・佐竹の動向は、伊達政宗最上義光などが抑え、福島隊を始めとする豊臣系の大名の監視役は、譜代の本多忠勝井伊直政を付けた。
さすがの家康は、この辺りの抜かりはないが、三成に近い宇喜多秀家はともかく、毛利輝元が西軍に付くなど、思わぬ形で大きな争いになっていったことは想定外だったはずである。
すでに西軍を目の前にしている東軍先鋒部隊は、家康の出陣を促すため岐阜城を攻め、わずか一日で落城させた。
このままいくと、戦後の主導権を掌握できなくなる恐れを感じた家康は、9月1日にようやく江戸城を出陣、11日には清洲城、13日には岐阜城に入り、14日に美濃国・赤坂に着陣する。

杭瀬川の戦い

家康が陣を敷いた赤坂に金扇馬印が輝いた。
早すぎる総大将の登場に、大垣城に籠城していた西軍は動揺した。
慌てる三成に、左近は士気の回復のため奇襲策を進言し、宇喜多隊と明石全登の部隊が共に大垣城から出撃する。
左近は伏兵を配置し、別動隊が中村一栄の部隊を挑発し小競り合いになると、有馬豊氏の部隊も参戦して、杭瀬川付近で乱戦となった。
交戦した部隊が、敗走と見せかけひとまず退き、追撃するところを潜んでいた伏兵が挟撃し、さらに明石隊が参戦して、中村・有馬隊を敗走させた。
家康が赤坂に陣を敷いた14日の正午ごろ、左近が仕掛けたこの局地戦は、杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)と呼ばれ、東軍は見事に出鼻をくじかれる形となった。
家康は、戦の勝敗を野戦で決したかった。
大垣城攻めは、犠牲が多いうえ時間を要する。
時間を要すれば、大津城攻めの部隊や大坂城の毛利が参戦し、さらに長引けば大坂城が西軍寄りになる恐れもあった。
家康は、中山道を進む徳川本隊の遅刻は想定外だったが、勝算ありと見て決戦に踏み出したのであろう。
対する三成は、家康の流言に乗り大垣城を出た流言説や、松尾山に陣取った小早川秀秋を警戒して関ヶ原まで出たとする説がある。
西軍主力部隊は、14日夜に大垣城を出発し、東軍の布陣する中山道を避け関ヶ原に向い、東軍は15日未明に西軍の移動を確認し追撃を開始する。
両軍は夜明け頃に布陣を終え、慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)が始まる。

左近最後の戦い

三成は笹尾山に陣を敷き、左翼に左近を配し、戦闘開始を待った。
左近は、黒田長政の部隊に備え、態勢を整える。
雨が上がり霧が晴れ始め、開戦となった。
井伊隊が宇喜多隊に攻撃を仕掛け、福島隊もこれに遅れるなと、鉄砲隊が宇喜多隊に向かい発砲し、これが合図となり、合戦の狼煙が上がった。
戦闘が始まると、左近は兵を二手に分け、一隊は守備を固め、もう一隊を自ら率いて、長政の首を取ろうと黒田隊に突撃した。
黒田隊は攻撃の激しさに、正面からの攻撃をあきらめ、鉄砲隊による側面からの攻撃に切り替えた。
長政家臣の菅正利率いる五十挺の鉄砲隊は、高所に登り左近をめがけて一斉に発砲した。
死傷者が続出する中、奮闘する左近も被弾し落馬した。
左近は、家臣に肩を担がれて行き、陣中で傷の手当てをした後、ここを死に場所と定めたのか、兜を捨てて再び黒田隊に突進していったが、その後戦場からは姿を消してしまった。
左近は、この時に討ち死にした可能性が高いと思われるが、遺体は確認されなかった。
黒田隊の兵は、関ヶ原での左近の鬼神の形相を、数年もの間夢で見たといわれる。


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生存説も各地にあり、何とも最後まで謎多き人物であった。
「治部少(三成)に過ぎたるもの・・・」は、「稀代の名将」を持った三成をうらやみ、皆がそう言ったのかもしれない。
島清興、慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原で死去、享年60歳。

(寄稿)浅原

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