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タグ:戦(いくさ)
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高橋紹運と立花直次~岩屋城の戦い・岩屋城の訪問記
高橋紹運(たかはし-じょううん)は吉弘鑑理の次男で、1548年に豊前・筧城にて生まれた。 母は大友義鑑の娘か?(諸説あり) 父・吉弘鑑理は智勇に優れた武将で、大友義鑑の一門として活躍し、大友義鑑の子・大友義鎮(大友宗… -
5分でわかる川中島の戦い~永禄4年川中島合戦(第4次川中島の戦い)
妻女山~雨の宮の渡し ▼武田信玄VS上杉謙信が直接対決した最大の激戦、第4次川中島合戦(第4次川中島の戦い)。 1561年(永禄4年)旧暦9月10日、現在の暦で10月21日頃。 ▼上杉謙信軍1万3千は、… -
神流川の戦いの現場を往く~美学にこだわった滝川一益の撤退戦
▼本能寺の変(1582年・天正10年)が起ったとき、織田勢で京から最も遠い任地にいたのが滝川一益だ。 武田滅亡後の旧領のうち、上野(群馬県)一国と信濃(長野県)の二郡を与えられ、厩橋城(まやばし・のちの前橋城)主として… -
眞鍋七五三兵衛と眞鍋道夢斎と沼間任世と沼間義清と松浦安太夫と寺田又右衛門【村上海賊の娘】
織田勢の水軍の将である眞鍋七五三兵衛(まなべ-しめのひょうえ)に関しては、あまり詳しくわからないが、泉州和泉水軍衆を率いたものと推測される。 眞鍋七五三兵衛が率いた和泉水軍(眞鍋水軍)は、元々、瀬戸内にある塩飽諸島・眞… -
廿里の戦い(とどりのたたかい)~小山田衆と滝山衆が高尾で行った合戦
廿里の戦い(とどりのたたかい)は、1569年10月1日に武田勢と北条勢が戦った合戦です。 廿里原古戦場としての場所は、だいたいJR高尾駅の甲州街道付近となります。 廿里古戦場、十十里原古戦場、十々里古戦場など色々な書… -
粟ノ須の戦いと粟ノ須古戦場跡~伊達輝宗と畠山義継の最後の地
伊達政宗が畠山義継(二本松義継)に捕らわれた父・伊達輝宗を救出しようと戦った場所が、この「粟ノ須古戦場跡」です。 ドラマなどでは、阿武隈川の河川敷のような雰囲気の場所で、涙ながらも鉄砲を撃ちかけるシーンが印象的… -
長谷堂城の戦い 激戦となった上杉家と最上家の合戦
長谷堂城の戦いは、1600年、関ヶ原の戦いの前に発生した戦国時代の合戦。 長谷堂城(はせどうじょう)は、最上義光の山形城にとって、最も有力な支城である防衛の要で、関ヶ原の戦いの際に発生した慶長出羽合戦では、怒涛のごとく… -
ガマの油 関ヶ原の戦い・大阪の陣 傷の治療薬である陣中膏
「ガマの油」と言うのは、江戸時代に「陣中膏」として売られた薬の名称。 最近、映画でもガマの油と言うのがあったような気が致します?が、本物のガマの油の話をしたい。 ガマの油の由来としては、大坂の陣に徳川勢… -
関戸城 鎌倉時代の霞ノ関「関戸の戦い」寺方大屋敷(佐伯屋敷)と有山屋敷も
東京都多摩市にある関戸城(せきどじょう)は、京王線の聖蹟桜ヶ丘駅から徒歩15分の山城で、標高115m、比高50mとなります。 多摩川の南側にあり川崎街道、西は野猿街道、東は鎌倉街道、そして、多摩川の対岸は中河原・分倍河… -
山中城訪問記【山中城の戦い】北条氏の見事な山城
日本100名城にも選ばれた素晴らしい遺構が残されているが箱根の「山中城」だ。 富士山も望む山中城 三島から箱根峠に登る「東海道(現在の国道1号)」の交通要所の抑えとして、標高580mの箱根山中に小田原・北…