毛受勝照とは 毛受兄弟の墓 柴田勝家の身代わりとして討死する

毛受兄弟の墓




毛受勝照(めんじゅ-かつてる)は、1558年8月に毛受照昌の子と生まれ、12歳の頃から、柴田勝家の小姓として仕えました。
名前が色々とありまして、毛受照景、毛受家照、毛受吉親、毛受庄助、毛受荘助、毛受荘介、毛受勝助、毛受勝介とも言います。
初め名前は、荘介照景と伝わる文献もあるようです。
毛受氏は、尾張・新居城主である水野良春の子孫にあたります。
姓の読み方は「めんじょ」「めんじょう」「めんじゅ」とも読みますが、かなり珍しいよみかたです。


毛受勝照は、優秀な武将に育ったようで、小姓頭を経て、合戦でも手柄を立てました。
1574年、伊勢長島攻めの際には、一向一揆勢に、柴田勝家は馬印を奪われると言う失態を犯しています。

毛受兄弟の墓

この恥辱に、柴田勝家は敵陣に突入して討死しようとしましたが、17歳の毛受勝照(毛受荘介)はこれを制止して、自らが敵に突っ込みました。
そして、見事に馬印を奪還して戻ってきたため、柴田勝家は称賛しました。
これに飽き足らず、毛受勝照(毛受荘介)は、すぐさま敵陣へ突撃したため、柴田勝家は急ぎ精鋭部隊を進出させて、毛受勝照の命を救ったと伝わります。
これらの戦功にて、毛受勝照は、主君より「勝」の字を与えられたと言う事になるようです。

毛受兄弟の墓

しかし、明智光秀本能寺の変により、織田信長が討たれると、羽柴秀吉と柴田勝家は織田家の実権を争い、1583年、賤ヶ岳の戦いになります。
柴田勢は、前田利家越前・府中城に戻るなどして、敗戦濃厚となり、柴田勝家は斬り込んで討死を覚悟します。
その時、1万石になっていた毛受勝照は、200を率いて、敵を引きつけるので、柴田勝家には北ノ庄城に戻るように促しました。

毛受兄弟

毛受勝照は柴田勝家の馬印「金の御幣」を預かって、羽柴勢の大軍を引きつけます。
この時、兄・毛受茂左衛門は兄弟で討死しようと話しましたが、毛受勝照は、兄に母を扶養することを頼み、逃れるように言ったとされます。
しかし、兄・毛受茂左衛門は「義を好む母に対して、それは却って不孝である」として拒否しました。

賤ヶ岳の登城口

そして、毛受兄弟らは「我は柴田勝家なり」と言い放ち、柴田勝家の身代わりになって討死し、柴田勢の撤退を助けたと言う事になります。
毛受勝照は享年25。

敵将・豊臣秀吉はこの忠義を称賛し、北ノ庄城を陥落させたあと、毛受兄弟の首を母に届けたと言われています。
また、毛受勝照の子らは、尾張・徳川家に仕え、明治初期になると水野に姓を戻したようです。
前田利長に仕えて加賀藩士になったご子孫もおられます。

毛受兄弟の墓

尾張旭市の公民館に、毛受勝照(毛受家照)の銅像があるようです。

毛受兄弟の墓

この記事にて掲載して参りました、毛受兄弟の墓は、賤ケ岳の麓、長浜市余呉町新堂にあります。

毛受兄弟の墓

毛受兄弟の墓への交通アクセス・行き方ですが、JR余呉駅からバスにて15分、美濃山バス停下車して徒歩10分となります。
クルマの場合、北陸自動車道の木之本ICより15分で、未舗装ですが無料駐車場が墓の近くにあります。
当方のオリジナル地図にて、駐車場の場所をポイントしておきます。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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