カテゴリー:寄稿

  • 本多忠勝

    本多忠勝 猛将伝 徳川四天王

    「戦国最強は誰か」戦国時代好きが四人、五人と集まれば、必ずと言っても良いほどこの話題が持ち上がるのではないだろうか。 数多いる強者の中で、著者には強く推したい人物が一人居る。 徳川家康に仕え、生涯57回戦場に赴き、か…
  • 加藤忠広

    加藤忠広とは 薄幸の時代に生を受けた加藤清正の嫡男

    加藤忠広(かとう-ただひろ、加藤忠廣とも)は、慶長6年(1601年)に肥後熊本藩主・加藤清正と玉目氏出身の側室である正応院の間に三男として生まれました。 ただし『丸岡城ものがたり』加藤忠廣略年表によると慶長5年(160…
  • 結城秀康

    結城秀康 なぜ2代将軍になれなかった?

    徳川家康の次男・結城秀康(ゆうき-ひでやす)は関ケ原の戦いの時、西軍上杉景勝の関東進出や味方の東軍ではあっても信用をしきれない伊達政宗や最上義光を牽制する等大役を担いました。 関ケ原の主戦場ばかりに目がいく東軍西軍の一…
  • 和田惟政

    和田惟政 織田信長とルイス・フロイスを繋げた幕臣

    日本にキリスト教が伝来したのは戦国時代のことです。 宗教観の全く違うキリスト教を厚く保護したのは織田信長なのは有名なことです。 そしてルイス・フロイスに布教を近畿での布教を認めたのも信長です。 そこで、今回…
  • 武田神社

    戦国随一の名将「武田信玄」が苦杯を舐めた経済的不利とは?

    日本戦国期の魅力の1つは、何と言っても日本全国に数多な戦国武将たちが割拠し、互いに政略や外交、そして合戦に鎬を削って、(時代小説やゲームなどの媒体の大きな存在に影響されているのも否めませんが)、我々現代人をも魅了するほど…
  • 赤松則村

    赤松則村~不撓不屈の生き様を貫いた播磨の雄②

    ~赤松則村~不撓不屈の生き様を貫いた播磨の雄①~の続き 赤松則村は護良親王の令旨を受けて配下に加わり、後醍醐帝の悲願であった鎌倉幕府の打倒に成功し、建武の新政(建武中興)の論功行賞で播磨守護を賜り、栄達します。 …
  • 徳川秀忠

    歴戦の戦士を法で破った徳川秀忠

    武家諸法度といえば、大坂の役の後徳川家康が徳川秀忠の命令という形式で発布した、諸大名統制のための全13ヶ条の法律。 この法律が、戦国時代の終わりを示すような事態を起こします。 今回は、武家諸法度の示した新時代の一つを…
  • 可児吉長

    可児吉長 (可児才蔵) 笹の才蔵と呼ばれた猛将

    戦国最強の武将と言えばと聞かれると多くの方が本多忠勝や島左近と答える方が多いかと思います。 しかし、この2人の他にも戦国最強といっても過言ではない人物がおりました。その者の名前は可児吉長(かに‐よしなが)という人物です…
  • 赤松則村

    赤松則村~不撓不屈の生き様を貫いた播磨の雄①~

    その時代の政情・社会情勢によって評価が全く異なる武将は多く存在しますが、本項で紹介する南北朝の武人・赤松則村(あかまつ-のりむら)もまた、そうした武将の一人とも言える人物です。 赤松則村は建治3年(1277年)、村上源…
  • 織田信長

    織田信長が優れた経済感覚を持てた理由

    戦国一、というより日本史上の英雄というべき人物は、『織田信長(1534年~1582年)』であることは皆様よくご存知の通りでございます。 我々現代人が、その信長に惹かれる理由として挙げられるのは、それまでの一般的な既成概…



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