長宗我部兼序 名将と言われながら滅亡を招いた長宗我部元親の祖父

長宗我部兼序

長宗我部兼序(ちょうそかべ かねつぐ)は、室町時代後期の土佐の有力武将です。
土佐の出来人と呼ばれ、四国全土に版図を広げた長宗我部元親
しかし祖父の長曾我部兼序の代に長宗我部家は一度滅亡しています。
「家臣からの信望も厚く、知勇兼備の将」と言われた長宗我部兼序の紹介を通して、その滅亡の経緯を辿ります。

細川家との関係

長曾我部兼序は、土佐の国人領主・長宗我部雄親(かつちか)の子として誕生します。
生年ははっきりしていません。
長宗我部国親の父であり、長宗我部元親の祖父にあたります。


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文明10年(1478年)、長曾我部兼序は父・雄親の死をうけて家督を継ぎます。

当時の土佐は管領・細川政元の勢力下にあり、さらに公家大名である一条氏が土佐国司(名誉職だが権威はある)として有力豪族らをまとめていました。

長曾我部家は南北朝のころより土佐守護・細川家と強く結びついていたので、長曾我部兼序も土佐守護であった細川政元に仕えるようになります。
長曾我部兼序は「元秀」とも名乗っており、「元」の字は政元から賜ったものと考えられています。

<土佐の有力豪族>

応仁の乱を逃れて土佐に下向してきた公家大名の一条家を中心に、「土佐七雄」と呼ばれる豪族が割拠していました。
長曾我部家もこの七家のひとつに数えられています。

一条家16,000貫、吉良家5,000、本山家5,000、津野家5,000、安喜家5,000貫、大平家4,000貫、香宗我部家4,000貫、長宗我部家3,000貫。

勢力拡大

長曾我部兼序は、細川家の寺奉行を務めて関係を深めつつ、一条家とも密に繋がることにより土佐七雄の中で急速に勢力を拡大していきます。

応仁の乱から始まる激動の時代の中、長曾我部兼序は政戦に活躍し「武勇才幹衆に越へ、大敵を見てはあざむき、小敵を侮らず、寡を以って衆に勝ち、柔を以って堅きを挫く事孫呉が妙術を得たる大将」(『土佐物語』)と、知勇兼備の武将であったと評されています。

しかし、この急速な勢力伸長や細川家・一条家の権威を後ろ盾にした傍若無人の振る舞いが、他家から反感を招くきっかけとなります。

このように長曾我部を取り巻く状況が不穏な空気に包まれる中、半将軍・細川政元に実子がいないため、養子の家督相続を巡り細川家が内部分裂。
永正4年(1507年)に細川政元は家臣によって暗殺されます。


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この細川の内部分裂により、土佐のいた細川家の一門が帰京。
長曾我部兼序は後楯を失うことになります。
これを契機に、反長曾我部連合が結成されることになります。

長宗我部家の滅亡

永正5年(1508年)長宗我部兼序の勢力拡大と驕りを憎んでいた本山養明は、山田基通、大平元国・吉良駿河守らに反長曾我部を呼びかけます。
これに各家は呼応し連合軍が結成され、長曾我部家の居城・岡豊城攻撃の準備が開始されます。

岡豊城攻撃のきっかけとなったのは、
・長曾我部家、本山家の領民の間でおきた水の争い
・本山家、長曾我部家、吉良家の間で境界論争が起きたが話し合いで解決できなくなったため
などと伝えられています。

本山養明の呼び掛けに応じた山田基通、大平元国・吉良駿河守の総勢3,000の連合軍が3方向より岡豊城へと進軍を開始。
長曾我部兼序は兵500を率いて岡豊城から出撃し、国分川を背に連合軍を迎え撃ちました。

長宗我部兼序は、合戦の半ばで軍を反転し国分川の浅瀬を渡って城へ引き揚げるふりをします。
敗走を始めたとみた連合軍は、浅瀬を渡って長曾我部軍を追おうとします。
しかし、連合軍は国分川の深みに足を取られて身動きを奪われ、つぎつぎと長宗我部勢によって討たれました。
これは長宗我部兼序の連合軍を川の深い場所に誘い込む作戦だったのです。
久武、桑名、中内ら重臣の奮戦により、緒戦で大きな戦果をあげましたが、多勢に無勢であったため、深追いせず城に引き上げ籠城して守りをかためました。

その後、城は包囲され兵糧も乏しくなります。
兵力差も埋まらないため、ついに長宗我部兼序は妻子と共に自害。
城には火が放たれ岡豊城は落城し、ここに長宗我部氏は滅亡しました。


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死の直前、譜代の家臣である近藤氏とともに息子・千雄丸(長宗我部国親)を脱出させ一条房家を頼らせたとされています。

生存説

傲慢な側面がありつつも、家臣からの信頼が厚く知勇兼備での名将であったとされる長宗我部兼序。
その死を惜しむのか、生存説もあります。

*岡豊城落城時に自害せず脱出。
 槙山に逃れて豪族の専当氏を頼った。
 3年の滞在の後、専当家の調停により山田氏と和睦。
 岡豊城ではなく所領の吉原に戻るが、再度襲撃され自刃。

*岡豊城落城時に自害せず脱出。永正8年(1511年)に本山家や山田家と和睦。
 岡豊城主として復帰し、永正15年(1518年)頃に息子・国親へ家督を譲ったとされる

(寄稿)渡辺綱

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