徳川宗春 過度な倹約はかえって無益に 倹約令に逆らい尾張名古屋をこの世の極楽に

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徳川宗春

徳川宗春(とくがわ-むねはる)は、江戸時代中期の元禄9年(1696年)10月28日に徳川綱誠の子として名古屋に生まれた、尾張藩・七代藩主である。
宗春は江戸幕府の推進した改革にも異を唱え、大名でありながら派手な風体で家臣や領民を驚かせた。
享保の改革を行った八代将軍・徳川吉宗(とくがわ-よしむね)と比較されるが、宗春が繰り広げる政策から実像を探りたい。

尾張藩主となるまで

宗春は、尾張藩主である綱誠の二十男であるから、藩主の子としては決して恵まれていなかったといえる。
幼少から藩主の座を意識せず、保守的な尾張藩を冷静に眺めて成長し、兄の四代藩主・徳川吉通は、自由に育った末弟の宗春をよく可愛がった。
宗春は、18歳での出府以来、華やかな江戸でよく学び、よく遊び自身の思想を育てた。


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享保14年(1729年)には、尾張藩の支藩で一時廃されていた、陸奥国・梁川藩を与えられるが、翌年には本家の家督を相続していた兄の六代藩主・徳川継友が急死し、宗春がその跡を継ぎ七代藩主となる。
思いがけず御三家筆頭である尾張徳川家の当主となったのだ。
享保16年(1731年)に宗春が初めて名古屋城へ入城する際、このとき尾張の領民は新藩主の姿に度肝を抜かれた。
このときの宗春一行は、それぞれが異なる華麗な衣装を纏い、藩主・宗春も駕籠には乗らず黒い馬に騎乗し、全身も黒尽くめ、鼈甲製の唐人笠、そして長キセルを持った姿で、その姿はさぞかし目立ったであろう。

大きな愛と広い寛容の心で

享保の改革が行われた享保期は、厳しい増税や倹約令により、一揆や打ちこわしが頻発した時期でもある。
閉塞感のなかで、宗春自らが楽しむことで領民に楽しむことを促した。
とはいえ、藩主が行動をもって示さなければ領民は従わないはずである。
宗春は、自らが奇抜な振る舞いをすることで、その遠慮を吹き飛ばそうとした。
そして領民の心をすっかり引き付けた宗春は、いち早く大胆な政策を繰り出した。

▪️年貢を五公五民から四公六民への引き下げ。
▪️祭りや芝居を奨励、遊郭の誘致などの、文化や娯楽を重視した景気刺激策の打ち出し。
▪️藩士による巡回の強化、また夜間の治安維持のため、城下に提灯を数多く設置。
▪️死刑の廃止。


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宗春は、ひとりひとりの幸福が国力の源になるという理念をもとに、愛と寛容の心をもって、何事も領民の目線で、名古屋の町の発展に力を尽くしていくことになる。
そして、その理念をもとに「温知政要」を著し、藩士に配布することで周知徹底を図った。

法令や規制は少ないほど良い

将軍が幕政を主導し、自らが率先して質素倹約を行う世の中なのだから、各藩もそれに従わざるを得なかったのであろうが、尾張藩が吉宗に遠慮もなく規制緩和を断行したのは、宗春によほどの信念があったからだ。
その信念とは、やはり領民の生活を豊かにしたいということだろう。
領民の生活や気持ちを豊かにする政治をすれば、藩の財政も豊かになることを宗春は信じていたはずだ。
その結果、名古屋には全国から商人や職人たちが集まり、その賑わいは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」といわれるほどの活況ぶりであったという。
幕府の苦しい境遇を尻目に、名古屋の地で宗春の独壇場を見せつけられた幕閣にとって、宗春の存在はしだいに受け入れられないものになっていった。
しかし宗春は、家臣にも公私の区別をつけるように命じるなど、幕府と対立する態度は全く見せなかった。

吉宗との対決

享保の改革の最大の目的は、幕府の財政を再建することにあった。
改革は、幕府の財政を一時的に黒字化に転じさせ、徳川政権を維持させたという意味では、なくてはならなかった改革である。
しかし改革の後期では、江戸の経済状況の悪化に吉宗も苦悩した。
将軍・吉宗も人の子であり、苦悩すればするほど宗春を意識せざるを得なくなっていた。
尾張徳川家は、この国では将軍家に次ぐ家であり、下手をすれば両家の対立は国を二分しかねない。
吉宗は宗春をこのまま許しておくわけにもいかず、尾張藩邸に二人の使者を送った。
使者が読み上げた詰問状の内容は次のようなものだった。

▪️国元ならいざ知らず江戸でも遊興にふけっている。
▪️嫡子の端午の節句に藩邸を開放し、飾りのなかには家康公から拝領した旗まであった。
▪️倹約令を守っていない。

というもので、宗春は上意としての叱責を形式的に詫びて見せる。


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その後、使者の役目を終えた二人に対し、宗春の反論は始まった。

▪️公儀の目の届かない国元なら自由とはおかしな話で、私は裏表ある行動はとらない。
非難されるのは、江戸にいる時は大人しくして、国元にいる時だけ領民の苦しみを理解せず遊興にふける者である。
▪️節句の祝い方に人からいわれることはないし、旗を飾ってはならないという禁令はいつ出たのか。
▪️倹約とは、領民を守るために、上の者が慎むのが真の倹約であり、上様はそこからおわかりでないのであろう。

特に最後は痛烈な吉宗批判である。
我が尾張藩では、藩主の私が領民と一緒に楽しんでいる。
それと全く逆に向かう吉宗の政治は、幕府の財政を守るために、民に対して増税しておきながら、倹約して苦しみに耐えろという政治なのだ、ということである。

政策の転換から政変へ

享保20年(1735年)宗春は、家臣に対して遊興徘徊を禁じる法令を出した。
これは、家臣に対して遊郭での遊びを禁じた法令で、町人には変わらず自由を認めている。
この急な方針転換はこれまでの宗春の言動からすると、なんともらしくないが、無制限に与えられた遊郭や芝居の楽しみは、藩内の風紀を大いに乱していた。
さらに藩の財政は、宗春の浪費もあり赤字が増加し、根本的な対策が必要な状況となる。
そこで宗春は遊郭の整理や、新規芝居小屋の設置を禁じるなどの対策を講じたが、財政状況の好転は見られなかった。
江戸時代の税は、相変わらず年貢中心であったし、何より領民の生活や気持ちを豊かにする政治だけでは藩の収益には直結しなかったのだ。
こうした状況で、藩政を担う旧来の重臣のなかには、このままでは藩の存続が危うくなるという危機感をもった者も多かった。
元文3年(1738年)宗春が参勤交代で国元を離れた際に政変は起こった。


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家老の竹腰正武はじめとする重臣は、その藩主不在中に幕閣と共謀し、宗春治世に行われた法令の廃止と、領民に対して課税を繰り返すなどの急激な政策の転換を行い藩内の混乱を招いた。
幕府は、この混乱の責任をとらせる形で宗春に謹慎を命じ、宗春は為す術もなく政変に敗れた。
尾張藩は、支藩である高須藩から新藩主・徳川宗勝を迎え、宗勝は質素倹約を柱とした藩政改革を行い、しばらく城下の賑わいは失われることになる。
一方の謹慎を命じられた宗春は、国元で永蟄居という処分が下り、名古屋に帰り蟄居生活を送った。
宗春に関係する史料は、藩によりほとんど処分され、事績でさえ葬り去られてしまっている。
竹腰にしてみれば、藩主の素行不良を理由に、次の藩主を吉宗の血を引く者にされては乗っ取られたも同然であり、藩と尾張徳川家の血筋を守るため必死で抵抗し、瀬戸際で宗春を切り捨てたというのが事実のようだ。

夢の跡

宗春の蟄居生活は、最大限の敬意が払われ、悠々自適なものであったというが、やはり記録は多くない。
悠々自適といっても蟄居であるから自由ではなかったが、宗春のことだから蟄居生活を楽しんでいたと思いたい。
その25年間の長きにわたる蟄居生活で、吉宗が死去し、宗勝も死去していった。
宗春は、時代の流れを感じるも、もはや過去の話として聞いていたのであろう。
祭りばやしのように華やかな人生が終わった。
徳川宗春、明和元年(1764年)10月8日、名古屋城で死去、享年69歳。


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宗春の事績や名古屋の姿を記した書物に「ゆめのあと」がある。
宗春に関係する史料は、ほとんどが処分されたなかで、宗春治世を懐かしみ、記録を後世に伝えたものと思われる。
「ゆめのあと」は作者不明で、原本がわからないよう、作為的に書き写されたため異本が多く存在するのだが、こういった人たちのおかげで宗春の実像を知ることができた。

(寄稿)浅原

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