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カテゴリー:麒麟がくる
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佐久間盛重(佐久間大学)とは 織田信勝の家老
佐久間盛重(さくま-もりしげ)は、戦国時代の武将で、織田家の家臣で、通称は佐久間大学と言います。 父は佐久間盛経です。 もともと、佐久間氏は、鎌倉初期の有力御家人・三浦義明の3男である三浦義春(みうら-よしはる)の4… -
織田信広とは 後継者の座を得られなかった信長の異母兄
織田信長の兄弟と言うと、後継者の座を争った織田信行(信勝)をはじめ、有楽流を興した茶人・長益、お市の方や豊臣秀頼との縁が深い信包と言った弟達が著名ですが、信長には腹違いの兄がいました。 それが、本項で紹介する織田信広(… -
織田彦五郎(織田信友)とは 家臣らに実権を握られていた尾張守護代
織田信友(おだ-のぶとも)は、織田彦五郎とも言い、尾張下四郡の守護代を務めた戦国時代の武将です。 父は、織田達広(または織田因幡守)ともされますが、清洲織田氏(織田大和守家)である織田達勝の嫡養子となったようで、あとを… -
源応尼(げんおうに) 華陽院(けよういん) 徳川家康の祖母
華陽院(けよういん)は、「於富の方」あるいは「於満の方」、源応尼(げんおうに)とも言う1492年生まれの戦国時代の女性です。 出自は下記の通り、諸説あります。 江州佐々木氏流である尾張の青木加賀守弌宗の娘 尾張… -
今井宗久の解説 織田信長が最も信頼した茶人
今井宗久が生まれたのは1520年で、大和の今井町にて誕生した。 父は今井宗慶(今井出羽守宗慶)の3男で名前などは不明。母も不詳。 今井宗久の名は今井兼員で、初名を久秀、通称を彦八郎のち彦右衛門。号は昨夢庵寿林。屋号は… -
足利義昭とは 信長包囲網など外交手腕に優れた最後の室町幕府将軍
足利義昭(あしかが-よしあき)の生まれは戦国時代の1537年11月13日、父は室町幕府12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。 2男(次男)であった為、足利将軍家の家督相続者以外の子として、1542年11月20… -
佐久間信盛 退き佐久間も最後は追放される運命に
佐久間信盛(さくま-のぶもり)は、戦国時代の1528年生まれとされ、若いころから織田信秀に仕え、のちに織田信長が幼少だったころから重臣として仕えた。 父は山崎城主・佐久間信晴、母の名は不明。 家督相続問題でも一貫して… -
上野清信とは 足利氏の一族で室町幕府の奉公衆
上野清信(うえの-きよのぶ)は、戦国時代に備中・鬼邑山城主である上野信孝の子として生まれました。 備中・上野氏は、足利氏の一族で室町幕府の奉公衆を務めた家柄です。 1493年、明応の政変のあと足利義稙が将軍に復帰した… -
損し続けて最後に天下をとった【徳川家康】
戦国期最後の勝利者となり、約260年という長きに渡る武家政権(江戸幕府)を築いた徳川家康(1542~1616)が、日本最大の平野部(つまり発展有望な地)を有し、鎌倉期以来、精強な兵馬が産出される関東地方に拠り、関ヶ原合… -
明智光秀の解説【麒麟がくる】数奇なその生涯 本能寺の変と最後の地も
明智光秀(あけち-みつひで)は、戦国時代の武将で、一介の浪人から織田信長に仕えると、その卓越した才能を発揮し、織田家の中でも異例の出世をする。 所領では税金を軽減して治水工事を行うなど善政も見られ、はたまた連歌会を催す…