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カテゴリー:女性
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井伊直虎は「男」だったのか?~新説では関口氏経の子か? ご意見も募集
井伊直虎は「男」だったのか?と言う説について、考えてみました。 女性でも城主と呼ばれた例を挙げてみますと、足利氏姫、立花誾千代、おつやの方、お田鶴の方・椿姫、小松姫(稲姫)などがいます。 その部類に井伊直… -
亀寿姫 持明院様 じめさぁ ~お参りすると美人になる鶴嶺神社
島津亀寿(しまづ-かめじゅ)と言う薩摩のお姫様がいます。 亀寿姫と呼びますが、法名から薩摩では持明院様(じめさあ)と親しまれています。 島津家第16代当主・島津義久の3女として1571年4月26日に生まれました。… -
大阪夏の陣秘話~大阪城脱出を決意した淀殿の侍女・おきくの逃亡録
大阪夏の陣で戦ったのは、男たちばかりではない。 大阪城にいた豊臣秀頼の母・淀殿や妹の常高院、乳母の大蔵卿局などのか弱い女性たちも、戦の恐怖と戦う立場を強いられた。 そのような状況下で、意外な行動に及んだ一人の女中がい… -
板額御前とは~鎌倉武士として戦った越後の女性武将で弓の名手
板額御前(はんがく-ごぜん)は城資国(城助国)の娘ですが、生没年などは不詳です。 平安時代の末期から鎌倉時代の初めの頃の女性で、日本における数少ない「女武将」として知られます。 巴御前に並ぶ女傑として「巴板額」(とも… -
義姫とは~2度も合戦場に出向いて停戦させるも伊達政宗毒殺事件は捏造か?
義姫(よしひめ)は、山形城主・最上義守の娘として1547年又は1548年に生まれた。 2歳上の兄に最上義光がおり、義姫とは頻繁に書状を交わすなどし仲が良いことが伺える。 1564年、義姫が17歳のとき、敵対していた米… -
長尾政景の溺死事件と仙桃院の数奇なる運命の果て
長尾政景(ながお-まさかげ)は、1526年に上田長尾家となる長尾房長の次男として生まれた。 仙桃院(せんとういん)は、仙洞院とも書くが、長尾為景の娘で、1524年ないし1528年生まれとされる。 父・長尾為景は越後長… -
吉岡妙林尼 見事な采配と智略で鶴崎城を奪還した女性【乙津川の戦い】
吉岡妙林尼(よしおか-みょうりんに)の生い立ちは良くわかっていませんが、父は林左京亮、又は丹生正敏(丹生小次郎正敏)ともされます。 本名はもちろん生没年も不明です。 この吉岡妙林尼が有名な理由としては、女性でありなが… -
豪姫とは~流罪になった夫へ仕送りを続けた前田家と豊臣家の姫
豪姫(ごうひめ)は、織田信長の家臣・前田利家の4娘として尾張・荒子城(愛知県名古屋市)にて1574年に生まれました。 母は、正室・まつ(芳春院)です。 父・前田利家の親友でもあった羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、おね(北政所… -
彦鶴姫・藤の方・陽泰院~内助の功だけでなく国母様と慕われた鍋島直茂の正室
石井彦鶴姫は、1541年に肥前・飯盛城主である石井常延(石井兵部少輔常延)の次女として生まれました。 最初は彦鶴(ひこづる)と呼ばれており、のち藤(ふじ)と名乗り、藤の方・北の方・御簾中など色々な呼び方があります。 … -
慶誾尼(けいぎんに)と龍造寺周家~龍造寺家兼から龍造寺家のゴダゴダ騒動
慶誾尼(けいぎんに)は、慶ぎん尼とも書きますが、1509年に生まれた村中龍造寺家の当主・龍造寺胤和(りゅうぞうじ たねかず)の娘(長女)となります。 慶誾尼は龍造寺周家の正室となると、1529年に肥前・佐嘉水ヶ江城の東…